弊社の副社長に口説かれています
「じいちゃん」

思わず声を上げていた、則安からの電話は珍しい。ローテーブルにあるスマートフォンに手を伸ばす尚登から陽葵は慌てて体を起こす、自分宛ではないが会長からの電話である背筋が伸びた。

「はーい?」

応答すれば、則安は生真面目に「俺だ」と名乗る。

『今日、仕事帰りにそちらに寄りたい、20時くらいになるがいいか?』
「いいけど、なんで?」
『事情の説明やらなにやら。電話で済ませることでもないし、陽葵さんにも会いたい』
「事情?」

何のことだと思うが、揃えた膝の上に手をつき背筋を伸ばす陽葵を見て理解した、頬の怪我の件だろう。

「判った、待ってる」
『玄関先で失礼する、長居する気はない』

接待は無用だという意味だと判り、了承して電話を切った。

「じいちゃんが来るってよ」
「え!?」

セオドアとは違い、則安の声は漏れ聞こえては来なかった。陽葵は慌てて立ち上がる、掃除を、片付けをしなくては。

「会長が、なにをしに……!」
「落合さんの件だろ。ああ、玄関先で帰るってよ」
「えっ、落合さんの件、話したの?」
「そりゃ言うだろ、十分傷害事件やろが」

病院に行く前には通信アプリの高見沢家のグループにメッセージを送り付けていた。もう辞めさせればいいとかなり激しい内容で送ったが、父からはまあ待てという返事があったくらいだったが。

はたして20時を1分過ぎた時、集合玄関のインターフォンが鳴らされた、尚登が応答し開錠するとしばらくして玄関のインターフォンが鳴らされる。
玄関に向かう尚登の後をついて歩きながら、陽葵は髪を整えフリースの襟を正した。
身内を出迎える尚登は「よお」と言ったきりだが、陽葵は最敬礼で頭を下げる。

「お疲れ様です!」

則安は優しい笑顔でそれに応えた。

「ああ、お疲れ様。陽葵さん、怪我の具合はどうかな?」
「いえ! もともと大したことはないのに、尚登く……さんが!」
「大したことないことないだろ、女の子なのに顔に傷つけられて」

尚登は呆れながら陽葵の頬にあるガーゼを指の背で撫でた。それを見て則安も唇を引き締める、怪我の具合こそ見て取れないが尚登の言う通りだ。

「あの、お上がりください!」

陽葵が中へいざなった、未だにスリッパはない、本当に用意をしておくべきだったと後悔する。

「いやいや、本当にこちらで結構、用件を伝えたらすぐに帰るから」

ひとまず玄関の鍵はかけ、則安は切り出す。

「落合君だが、今日から私の秘書としてついてもらっている」

ああと呻くように返事をしたのは尚登だ、なんとかしろと訴えたがそういう形で収めようというのか。確かに則安の秘書ならば会社にいないことの方が多い、陽葵に会うこともなくなるだろう、だが尚登の腹の虫は収まらない。

「んな面倒なことしないで、さっさと辞めさせりゃいいだろ」
「尚登」

尚登の訴えを則安は厳しい声で諫める。

「雇った者をそう簡単にはクビにはできない、それこそ感情ひとつでクビを切るわけにはいかないんだ」
「感情じゃない、間違いなく傷害事件だ」

尚登の言葉に、則安ははあと大きなため息を吐いた。

「ファンデーションについては本人にも聞いたが、プレゼントの事実は認め、かぶれたようだと言えば、まあ合わなかったのかしら申し訳ない、謝罪したいと言っていた」
「んなもんいい」
「そうです、私が悪かっ──」

二人して声を上げたが、陽葵の言葉は尚登が眉間にしわを寄せ睨むことで止めた。

「念のため、物を調べようと思う」

則安の言葉に陽葵はえ?と声を上げていた。

「私も多くの人を見てきた、朗らかな者から腹黒い者まで──陽葵さんの怪我の話をした時の落合君の目は、何かを知っている目だった」

本来課長にもなれば誰かの秘書として働くことはない。だがそれを会長の秘書となり同行するよう求められた、左遷といってもいい状況のはずだが、落合はいそいそとやってきた。そして陽葵にファンデーションをあげたのかと聞けば最初こそ嬉しそうにそうなんです、色が合わなくてと饒舌に答えていたが、頬が大層かぶれて外出できないほどになってしまったらしいと大げさに言えば青ざめ視線が泳いだのだ。もっともはっきり取り乱すほど小心者ではなかった、会話が変われば普段の変わらぬ様子だったが、その後視線が合うことがなかった。なにが事情を知っていると思うのは当然だ。

「ちょっと預からせてもらいたい、いいかな?」
「落合の顔に塗ったくってやればいい」

尚登の怒った口調に、則安は微笑む。

「それは妙案だな、嫌がればなにか仕込んだ証拠になるだろう」

陽葵はいまだ鞄に入れていたファンデーションを取り出し、則安に渡す。

「検査機関で分析を頼む、その結果次第では処遇を考えるが」
「クビにはしないでください」

陽葵は先じて言っていた、尚登は怒った口調で陽葵の名を呼ぶ。

「十分傷害事件なんだぞ、警察に突き出せる」
「判ってるよ、でも傷が残るほどの怪我じゃないし、私は落合さんを恨んでないもん」

尚登を可愛がっていた落合の最後の抵抗だと思えば致し方ないと思えた。

「むしろ今解雇なんかされたら、ご年齢からも再就職とか本当に困るだろうし」

拳を握ってまで言う陽葵に、則安は微笑みかけた。

「ありがとう、陽葵さん」

尚登は甘いという優しさに感謝した。実際のところファンデーションからなにか出たとしても『証拠』にはなり得ないと思っている、ファンデーションは特別な品ではない上、落合が陽葵に渡した物だという確証がないからだ。トイレに防犯カメラはあるが出入り口を映すだけで内部にはない、二人が時間差で出入りする様は判ったが手渡した現場を押さえた証拠がないのだ。
< 83 / 88 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop