弊社の副社長に口説かれています
「お詫びをしないといけないのは私だ。落合君が仁志に思いを寄せていることは知っている、仁志も判っていながら希美さんを選んだ。仁志は落合君とはやり辛いとこぼすが、配置換えや転勤などをさせずに本社に置いておけと言ったのは私なんだ」

言って則安は深々と頭を下げた、会長に頭を下げられ陽葵は慌ててしまうが、尚登はふんと鼻を鳴らす。

「なんでだよ、おかげで長きに渡り俺にも迷惑が」
「恋心を利用するのは卑怯だが、ああいう者はそばに置いておけば社のためになる。仁志のために身を粉にして働くだろう、それはひいては社に貢献することになる、現に最近まではうまくいっていたんだ」

仁志は尚登よりも若くして副社長の座に就いている、その当初から落合は秘書としてそばにいた。その頃から積極的なアプローチはあったが仁志のタイプではなく、副社長と秘書という立場は厳密に保っていた。
希美が秘書についたのはその翌年だ。屈託がなく気立てもいい希美に仁志は惹かれた。落合を気にしつつ交際を申し出たが、最初こそ希美は辞退した。落合の気持ちを知っていたし、いずれ社長となる者の嫁など務まらないというのは陽葵と同じ気持ちだろう。それでも仁志は折に触れて希美を気にかける、静かなアプローチは少しずつ希美の心を溶かし、やがて仁志の思いに答えた。

だがそれはすぐさま落合も知る。まだそれほど親密にはしていなかった頃だったが、二人して煌く瞳で見つめあい会話していれば誰でも判るというものか。なんとか割り込もうと奮闘するが健闘及ばなかったのは既知のことだ。
希美を選んだと周知した時に落合が自ら異動を希望したならまだしも、落合はそうはしなかった。なおも本社の秘書課に居続けるのはやはり愛なのか。

「俺の見合い相手を送り込んできたのも貢献だと?」

尚登が不機嫌に聞けば、則安は微笑み答える。

「ああ、それもどこの誰とも判らない女性を連れてきたなら文句も言えるが、出自もしっかりしたご令嬢ばかりだった、むしろありがたかったぞ」

落合が直接仁志や則安にこの子はどうかと売り込んだわけではない。持てる限りのツテを使って末吉の跡継ぎが花嫁を探している、いい子はいないかと聞いて回ったのだ。

「そもそも、ナオが帰ってこないのがいけないんだろう。俺は大学はこちらへ帰ってこいと言ったはずだ」

腕まで組んで威圧する則安に陽葵は慄くが、恫喝されているはずの尚登はどこ吹く風だ、けっ、などと毒気づく。

「しかもやり残したことがあるなどと言って大学院にまで進んで、10年以上もフラフラと。俺や仁志は大学に通いながら会社の手伝いもして仕事を覚えたもんだ。それを羽を伸ばしに伸ばしきって、30にもなるのに身を固めることもしないから俺が奔走して」
「あー判った、判った、俺が悪かった」

尚登は手で耳を塞いで声を上げ、則安の言葉を止める。これまでも何度も聞かされた口上だ。その腹いせの見合いだったとでもいうのかと言いたいが、これ以上油を注ぐことはしたくなかった。

「ようやく落ちついたと思った矢先にこれだ」

則安が怒りのまま呟けば、陽葵が「すみません」と謝った。

「いやいや陽葵さんは悪くない、どうかこれからも尚登のそばにいてやってほしい」

再び頭を下げる則安に、陽葵はいえいえと叫び顔を上げてもらう。

「顔に怪我など女性には大変だろう、完治までゆっくり休むといい」
「いえ、これくらい、どうということないです」
「なに言ってんだ、俺も一緒に休むから」

尚登が言えば、則安はすぐさま尚登を睨みつける。

「尚登はちゃんと働け、道楽で仕事をしてるんじゃないんだ」
「でも陽葵が心配だし」
「ならば二人して田園調布( うち )に戻ってこい、うちにはいつも誰かしらいるから安心だろう。希美さんはいつ二人が戻ってきてもいいようにと毎日いそいそと窓拭きまでしているぞ」
「ええー?」

とびきり面倒そうな尚登の声に、ビクビクしてしまうのは陽葵だ、相手が会長だという意識が抜けない。

「陽葵さんはご実家の荷物も運びださなくてはいけないと聞いているぞ、ここに持ってくるくらいならうちに運べばいいだろう」
「ああ、それな」

川崎の家を手放す話はしているため尚登は呟いた。
だがそれもすぐではないからと陽葵自身、荷物の搬出は先延ばしにしてしまっている。もう何年も使っていなかったものばかりだ、史絵瑠たちではないが全て処分でも構わないのでは思いながらいざそうしようと思うと思い切ったこともできないものだ、母の写真のように大事なものもあるかもしれない。

「まあ、いずれ」

尚登ですら先延ばしだが、それは田園調布に住む話ではない。

「まあそんな話も立ち話ではなんだ、またゆっくりしようじゃないか。とりあえずこれはお預かりするよ、夜分に失礼したね」
「いいえ! こちらこそ、ご足労いただき申し訳ありませんでした!」

再度後頭部が見えるほど深々と頭を下げる陽葵に笑顔で応えて則安は帰っていく、お疲れありがとうと言ってドアを閉めたのは尚登だ。

「しかし、マジでちょっと厄払いにでも行ったほうがいいかもな、いろいろありすぎだろ」

改めてその通りだと思う、陽葵もうんと頷いていた。

「しばらく会社休んで、日本中の厄払いの神社仏閣を詣でるか」
「そんなこと言って仕事サボることばっかり考えないの。また会長に怒られるよ」
「陽葵といるほうがはるかに有意義」

笑顔で言ってしっかりと陽葵を抱きしめた、陽葵も尚登の背に腕を回し抱きしめ返す。
確かに尚登と時間も気にせず旅をできたらどれほど楽しいだろう、しかしそれは老後の楽しみでもいい、今はまだやることがあるのだから。
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