弊社の副社長に口説かれています



翌日、皮膚科に寄り道をしてからの出社のため遅刻することになる。着いて来ようとする尚登は無理矢理出社させ、診察が終わり次第会社へ行った。
なおもあるガーゼはマスクで隠した、そんな姿に山本は自身が傷ついたように心配してくれ、やはり休んだ方がよかったのかと思ってしまう。

そして午後の外出の折、エレベーターで乗り合わせた仁志が口火を切った。

「落合君だが、依願退職するそうだ」

小さな声に、乗り合わせた皆で「え?」と聞き返し、尚登だけは「はあ?」と怒りを含んだ声で返した。仁志は眉間を指で揉みながら答える。

「会長は、例の物を分析会社に持ち込むのに付き合わせたらしくて」

民間の成分分析の会社に調査の依頼をした。朝一で向かおうとすれば落合は会長がそこまでしなくてもと止めるのを、孫の嫁の顔がただれた原因を知りたい、内容次第ではファンデーションのメーカー相手に訴訟だと意気込んだ。

「そのまま具合が悪いからと帰宅したそうだ、そして体調が思わしくないので退職したいと先ほど電話で連絡があった。有休も残っているのでこのまま辞めさせてもらいたい、と」

口頭での退職の告知は有効だ、後日退職届を総務部長に出せば問題はないのだが。
尚登は面白くなさそうにふんと鼻を鳴らす。

「懲戒解雇を逃れたか」

会社都合による退職は次の就職への足かせになる場合もある。もちろん『懲戒』などとつかないただの解雇でもよいのだが。

「やっぱあのババア、なんか仕込んでたな」

尚登が言えば、仁志はため息交じりに答える。

「──恐らくな」

秘書たちはなんのことなのかが判らない、きょろきょろとしている気配に仁志はその会話を無理矢理終わらせた。

分析の結果が出たのは1週間後だった、その結果を持って則安が落合の自宅マンションを訪ねたのは夜になってからだった。

都内のウォーターフロントにある高層マンションだ。既に訪問する旨は知らせてある、コインパーキングに運転手と秘書を残し一人その部屋の呼び鈴を押す。
応答もなくドアが開いたのは、陽葵のマンション同様1階のインターフォンで既に来訪を知らせていたからだ。顔色も悪く憔悴しきった落合がドアの隙間から顔を覗かせた。

「私の用事は判っているな」

落合は小さく頷く。

「結果は見るか」

A4サイズの封筒を差し出すが、落合は小さく首を左右に振った、その結果など判っている。

ファンデーションからは微量ながら殺虫剤の成分が検出された。故意なのか偶発なのかも判らない程度で、そのものは揮発性が高いものだ、時間と共に薄まった可能性も否定できないという。もちろん製造会社で入るはずがないだろう。ならばどこで入ったのか、落合の顔が示している。

「陽葵さんは、怪我は大したことないから気にしないでほしい、いきなり顔に塗った自分が悪かった、落合君のせいではないと──君よりよほど大人の対応だな」

検出の報告と落合を調査するかという話を受けた陽葵は、則安にそう伝えた、尚登は当然怒るがそれを陽葵がなだめている。
大きな騒ぎにしてほしくはなかった。一方通行ながら尚登を可愛がっていた落合の抵抗だ、それを罰することは間違いではないがそんなことはできないと思うのは陽葵の甘さか。それでも長く働いた会社を自ら辞めたということは犯した罪は判っているからだ、それに追い打ちをかける気にはなれなかった。ほんの少し傷つけられた、それもきれいに治れば終わりでいい、そう思っていた。

「ごめんなさい……こんな大事(おおごと)になるなんて、思わなくて……」

落合は消え入りそうな声で言った。

「あの……わざとでは……虫が……そうハエがいたんです、それをなんとかしようと吹きかけてしまって……表面は拭いたんですけど、まさか中まで入ってしまっていたなんて……!」
「それが君の言い訳か」

則安がため息交じりに言えば、落合は悲鳴のような声を上げ則安を上目遣いに見る。寒さも厳しくなってきた今、ハエなどいるはずがない──単なる嫌がらせだった、そのために高いファンデーションを買い殺虫剤を吹きかけ、嬉しそうに受け取る陽葵の裏でほくそ笑み満足だった。怪我をさせるつもりはまったくなかった、殺虫剤ごときでそのような怪我をするなどとは思っていなかったのだ。

「お詫びを……藤田さんに、きちんとお詫びをしたいです……! 治療費とか……」

せめてもの贖罪にと申し出るが、則安の返事は冷たかった。

「金は不要だ。そしてどんな理由であれ陽葵さんと二人きりで会わせる気はない、尚登も一緒なら、こちらに来させていいか」

そんな言葉に落合は慌てて首を横に振る。尚登を自分の息子だと吹聴していたのは比喩ではない、本当にそう思い大事にしてきた、その尚登に冷たい目で見られるのは嫌だった。

「……ご足労、いただくわけには……」

そう言い訳すれば、則安は気持ちは伝えておくと言葉を添えた。

「君には失望した、いや、期待しすぎた私が悪いのか」

則安の言葉が心をえぐる。

「つい先日まであれほど社のために働いていてくれたのに。手の平を返した途端、なぜ一番縁遠い陽葵さんをターゲットにしたのか。振られた腹いせだというなら仁志だろう、仁志を奪った仕返しなら希美さんだ、なぜ一番弱い立場の陽葵さんだったのか──本当に残念だよ。罪に問わないという陽葵さんに感謝しなさい」

落合は涙ながらにすみません、申し訳ありませんと繰り返した。それを聞きながら則安は邪魔をしたと挨拶をして踵を返す。
実際のところ、検査結果が出たところで落合を罪に問うことは難しいだろうと考えている。一番は受け渡しの現場を押さえていない点だ。同じ成分の殺虫剤が落合の家にあったところで、その殺虫剤がいつファンデーションに付着したのかが判らないのだ。

やれやれと則安は眉間を指で挟み揉んだ。本当に軽症で済んでよかった、これで命を脅かすようなことをしでかしていれば取り返しがつかなかった。私怨で警察を巻き込む事件になるなどあってはならない。
今更ながら落合の処遇はやはり間違っていたのかと後悔した、もっと早く打つ手があったのだろうか。
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