私と彼の結婚四箇条
結婚報告
冬の肌に突き刺さるような寒空の下、多くの人が行き交うオフィス街の一角に特徴的なビルがある。観光名所にもなっているそのビルは、様々な商品を取り扱う商社で、花乃の職場であった。
バタバタと慌ただしいそのオフィスには、今日も助けを求める声が飛び交っている。
「ちょっとこの発注どうなってるか知らない?」
「ごめん。ちょっと聞いていい?」
みんながみんな次々と取り合うように呼び止める。その一つ一つに、彼女は嫌な顔一つせず一つ一つ丁寧に答えていく。
その様子を見ながら、もじもじと質問の機会を伺っている若い女子職員がいた。そして勇気を振り絞って両手を上げて、助けを求めた。
「花乃先輩〜っ!!トラブルですぅ〜っ!!」
「どうしたの、窪内さん」
お疲れ気味の窪内は、入社したばかりの頃はモデルのように身長が高くスレンダーな体型をしていた。しかし今はスレンダーに磨きがかかったのか、平均的な女性の体型よりもだいぶ細くなっている。顔も少しやつれていて、ショートヘアの髪の毛だってパサついている。一生懸命頑張っている窪内のため、花乃は彼女のパソコンを覗き込んだ。
「ああ。これやっちゃうよね。この時はね……」
花乃はパソコンを操作しながら窪内に教えていく。手際良く要領よく変わっていく画面に、窪内は目を輝かせていた。
「わかりました!!ありがとうございます!」
晴々とした窪内の表情に、花乃も少し微笑んだ。その様子を隣で見ていた女性職員が、自分の仕事の手を止めて、声をかけた。
「さすが上宮さん。助かったよ。本当、できる人だわあ」
「あ。私、結婚したんです。上宮から濱咲になりました」
そう言えば、と世間話でもするかのようにさらりと落とした爆弾に、周囲は一瞬にして静まり返った。
「え」
「え」
そして少しずつ波紋が広がるように小さな声が漏れていき、一気に爆発した。
「ええぇーーー!!!!」
そのフロアにいた全員が花乃の方を見ている。
爆心地にいた窪内は、何も言えず口をパクパクさせて驚いていた。一番早く食いついたのは窪内の隣にいた女性職員だった。
「ちょっと詳しく話しなさいよ」
「特に話すほどの内容はないですけどね」
当の本人である花乃は業務連絡をするかのような冷静な事務的な反応である。
その様子は新婚ほやほやにはとても見えない。
「あの上宮さんが……。」「彼氏いたんだ。」等周囲からぽつりぽつりと漏れ聞こえてくる。
あまりにドライな答えに周囲はさらに興味を惹かれていく。それと同時に踏み込んではいけない一線なのかと尻込みする。
「いや結婚するのに、内容ないとかありえないですから」
窪内は思わず突っ込んだ。入社2年目の若い女性として、やはり結婚に少なからず夢を持っているのだろうか。キラキラした目で見られて、花乃は少し気恥ずかしくなった。
「えー……」
しかし、窪内が期待するような甘酸っぱい内容なんてこれっぽっちもない。
思い返しても、朝から部屋に押し入られて婚姻届を突きつけられたり、契約内容の確認して契約書に印鑑押したり、そして旦那様には好きな人がいる。
花乃は腕を組んで考えた。
ーー何で私、結婚したんだろう。
「まあ強いて言えば酒の勢い、かな」
行き着いた答えがそれだった。
毎月恒例の那津との飲み会での与太話から始まって、互いにメリットがあるということで一年契約を結んだのだ。
これは酒の勢い以外にないだろう。
花乃はそう思った。
「それ、幸せな結婚ですか?」
窪内が急に不安そうに表情を曇らせた。
聞き耳を立てている周囲も同様に不安そうに花乃を見守る。
「うーん。まあ幸せなんじゃない?」
那津のことが嫌いなわけではないし、小さい頃から一緒なので同居することも苦ではない。
親や周囲から結婚結婚と言われることもなくなる。
結婚しなければ、という謎の焦りもなくなる。
そういうメリットに魅力を感じて承諾したのだ。
これからどうなるか分からないとしても、今は不幸ではないのだから、と思い至り、花乃はそう答えた。
「うう〜ん……まあ……花乃先輩がいいなら……」
窪内は納得はしていないようだが、それ以上言うこともなかった。女性職員もつまらないとばかりに体を放り出して、椅子の背もたれに寄りかかった。
「うんうん。いいのいいの。納得して結婚したんだし」
「じゃあ、相手はどんな人なの?」
諦めない女性職員が次の質問をしてくる。
「幼馴染みです」
それに対しても花乃は「業務連絡です」とばかりに報告する。
「あー。少女漫画みたい。いいわあ」
窪内もどこかうっとりとした表情をしている。「幼馴染み」という設定は窪内にヒットしたようだ。
「で。仕事は何してるの?てか、まさか寿退社!?地元戻るとか?」
「いえ。彼、東京で弁護士してるので。仕事はこのままです。変わったのは名前くらいです」
その情報に今度は周囲がざわつく。独身女性職員がギラギラと肉食獣のような視線を花乃へ向ける。
ーーこれは合コンのセッティング頼まれるなあ。
なるべく視線を合わせないようこの場から離れる方法はないものかと花乃はため息をついた。
「お祝い飲み会しなきゃね。旦那のスケジュール確認しておいてね」
「あ。はい」
ーーいやだなあ。
見せたらきっとこれ以上に質問責めにあうのは目に見えている。女性受けのする那津を連れて行ったら余計に大変なことになりそうだ。
「花乃先輩……おめでとうございます。私……私頑張ってお祝いしますね!」
純真無垢な窪内がぐっと拳を強く握った。
その姿が可愛らしくて、花乃はくすりと笑った。
「ありがとう」
そう言って花乃は速やかにこの場を立ち去ろうとした。しばらくこのフロアにいない方がいいから、コーヒーでも買ってこよう、と向きを変えた時。
「ちょっと待ってどこ行くの上宮……じゃなかった濱咲さん」
少し圧のある声で呼び止められ、肩を掴まれてしまった。
後ろを向くと、笑顔のはずなのにギラギラとした目つきの女性陣が花乃を捉えていた。
まさに肉食獣。
そして花乃はロックオンされた獲物。
花乃から搾り取れるだけ沢山のことを搾り取るつもりだ。
「まだ話は終わってないからね」
ーー今日は仕事にならないなあ。
いつの間にか椅子を持ってきた職員たちがバリケードをはるように花乃を囲いこんでいる。
360度見渡す限り、肉食獣が瞳をギラギラさせている。
もはや、花乃に逃げ場などないのだった。
バタバタと慌ただしいそのオフィスには、今日も助けを求める声が飛び交っている。
「ちょっとこの発注どうなってるか知らない?」
「ごめん。ちょっと聞いていい?」
みんながみんな次々と取り合うように呼び止める。その一つ一つに、彼女は嫌な顔一つせず一つ一つ丁寧に答えていく。
その様子を見ながら、もじもじと質問の機会を伺っている若い女子職員がいた。そして勇気を振り絞って両手を上げて、助けを求めた。
「花乃先輩〜っ!!トラブルですぅ〜っ!!」
「どうしたの、窪内さん」
お疲れ気味の窪内は、入社したばかりの頃はモデルのように身長が高くスレンダーな体型をしていた。しかし今はスレンダーに磨きがかかったのか、平均的な女性の体型よりもだいぶ細くなっている。顔も少しやつれていて、ショートヘアの髪の毛だってパサついている。一生懸命頑張っている窪内のため、花乃は彼女のパソコンを覗き込んだ。
「ああ。これやっちゃうよね。この時はね……」
花乃はパソコンを操作しながら窪内に教えていく。手際良く要領よく変わっていく画面に、窪内は目を輝かせていた。
「わかりました!!ありがとうございます!」
晴々とした窪内の表情に、花乃も少し微笑んだ。その様子を隣で見ていた女性職員が、自分の仕事の手を止めて、声をかけた。
「さすが上宮さん。助かったよ。本当、できる人だわあ」
「あ。私、結婚したんです。上宮から濱咲になりました」
そう言えば、と世間話でもするかのようにさらりと落とした爆弾に、周囲は一瞬にして静まり返った。
「え」
「え」
そして少しずつ波紋が広がるように小さな声が漏れていき、一気に爆発した。
「ええぇーーー!!!!」
そのフロアにいた全員が花乃の方を見ている。
爆心地にいた窪内は、何も言えず口をパクパクさせて驚いていた。一番早く食いついたのは窪内の隣にいた女性職員だった。
「ちょっと詳しく話しなさいよ」
「特に話すほどの内容はないですけどね」
当の本人である花乃は業務連絡をするかのような冷静な事務的な反応である。
その様子は新婚ほやほやにはとても見えない。
「あの上宮さんが……。」「彼氏いたんだ。」等周囲からぽつりぽつりと漏れ聞こえてくる。
あまりにドライな答えに周囲はさらに興味を惹かれていく。それと同時に踏み込んではいけない一線なのかと尻込みする。
「いや結婚するのに、内容ないとかありえないですから」
窪内は思わず突っ込んだ。入社2年目の若い女性として、やはり結婚に少なからず夢を持っているのだろうか。キラキラした目で見られて、花乃は少し気恥ずかしくなった。
「えー……」
しかし、窪内が期待するような甘酸っぱい内容なんてこれっぽっちもない。
思い返しても、朝から部屋に押し入られて婚姻届を突きつけられたり、契約内容の確認して契約書に印鑑押したり、そして旦那様には好きな人がいる。
花乃は腕を組んで考えた。
ーー何で私、結婚したんだろう。
「まあ強いて言えば酒の勢い、かな」
行き着いた答えがそれだった。
毎月恒例の那津との飲み会での与太話から始まって、互いにメリットがあるということで一年契約を結んだのだ。
これは酒の勢い以外にないだろう。
花乃はそう思った。
「それ、幸せな結婚ですか?」
窪内が急に不安そうに表情を曇らせた。
聞き耳を立てている周囲も同様に不安そうに花乃を見守る。
「うーん。まあ幸せなんじゃない?」
那津のことが嫌いなわけではないし、小さい頃から一緒なので同居することも苦ではない。
親や周囲から結婚結婚と言われることもなくなる。
結婚しなければ、という謎の焦りもなくなる。
そういうメリットに魅力を感じて承諾したのだ。
これからどうなるか分からないとしても、今は不幸ではないのだから、と思い至り、花乃はそう答えた。
「うう〜ん……まあ……花乃先輩がいいなら……」
窪内は納得はしていないようだが、それ以上言うこともなかった。女性職員もつまらないとばかりに体を放り出して、椅子の背もたれに寄りかかった。
「うんうん。いいのいいの。納得して結婚したんだし」
「じゃあ、相手はどんな人なの?」
諦めない女性職員が次の質問をしてくる。
「幼馴染みです」
それに対しても花乃は「業務連絡です」とばかりに報告する。
「あー。少女漫画みたい。いいわあ」
窪内もどこかうっとりとした表情をしている。「幼馴染み」という設定は窪内にヒットしたようだ。
「で。仕事は何してるの?てか、まさか寿退社!?地元戻るとか?」
「いえ。彼、東京で弁護士してるので。仕事はこのままです。変わったのは名前くらいです」
その情報に今度は周囲がざわつく。独身女性職員がギラギラと肉食獣のような視線を花乃へ向ける。
ーーこれは合コンのセッティング頼まれるなあ。
なるべく視線を合わせないようこの場から離れる方法はないものかと花乃はため息をついた。
「お祝い飲み会しなきゃね。旦那のスケジュール確認しておいてね」
「あ。はい」
ーーいやだなあ。
見せたらきっとこれ以上に質問責めにあうのは目に見えている。女性受けのする那津を連れて行ったら余計に大変なことになりそうだ。
「花乃先輩……おめでとうございます。私……私頑張ってお祝いしますね!」
純真無垢な窪内がぐっと拳を強く握った。
その姿が可愛らしくて、花乃はくすりと笑った。
「ありがとう」
そう言って花乃は速やかにこの場を立ち去ろうとした。しばらくこのフロアにいない方がいいから、コーヒーでも買ってこよう、と向きを変えた時。
「ちょっと待ってどこ行くの上宮……じゃなかった濱咲さん」
少し圧のある声で呼び止められ、肩を掴まれてしまった。
後ろを向くと、笑顔のはずなのにギラギラとした目つきの女性陣が花乃を捉えていた。
まさに肉食獣。
そして花乃はロックオンされた獲物。
花乃から搾り取れるだけ沢山のことを搾り取るつもりだ。
「まだ話は終わってないからね」
ーー今日は仕事にならないなあ。
いつの間にか椅子を持ってきた職員たちがバリケードをはるように花乃を囲いこんでいる。
360度見渡す限り、肉食獣が瞳をギラギラさせている。
もはや、花乃に逃げ場などないのだった。