聖女となった悪女は隣国の王弟殿下に溺愛される





「冷たい風が気持ち良いわね」


 ふわり、と冷たい風が体を撫でる。
 何度も来たことのある、(ベアトリーチェ)お気に入りの裏庭が一望できるバルコニーからは見慣れた景色が視界いっぱいに広がっている。


 もう、この景色を見ることなんてないと思ってたのに……。


 私が死んだあの日、最期に思い浮かべたのは大好きな家族と、このバルコニーから見える景色、それから……ゼンのことだった。
 憎まれ口を叩いても、(ベアトリーチェ)にとってゼンと過ごす時間はとても楽しくて、何よりも私らしくいられる心地の良い時間だった。


「馬鹿ね、もう二度と、あんな時間を過ごすことはできないのに……」


 自傷の笑みを零せば、じわりと胸に傷みが広がる。以前の私は感じたことのない繊細な痛み。リリアになったことで心まで彼女になったのか、なんて戯言はすぐに「そんなわけないか」の呟きと冷笑とともに消え去る。

 ……彼女(リリア)がそんな繊細な心を持っていたのならば、私を殺して次期皇后の座につこうなんて思わない。


「弱くなったのは他の誰でもない私、ってことね」


 ──瞬間、音を立てて開かれるカーテン。
 振り返ると同時に聞こえたのは、求めていた声。


「っと、すまない。先客がいるとは思わなかったんだ。……こんな場所に彼女以外がいるなんて」
「ゼン……王弟、殿下……」


 神様が私にくれた最後のチャンスだと思った。誰かを思い胸が痛むことを知った私への、最後のプレゼント。

 驚いた表情の後に見せる少し目を伏せた悲しみの表情は、私の心に再び痛みを走らせる。
 その手には二つのグラス。きっと渡す相手は(リリア)ではない。


「……邪魔して悪かったな」


 以前は彼の方を見れば、必ず交わった視線。ふわり、と優しい笑顔を浮かべその視線が逸らされることははなかった。しかし今、彼の瞳に“私”は映っていない。交わった視線は、見たくないものから視線を外すように逸らされる。


 胸が、痛くなった。
 皇太子にいくら蔑まれようとも気にならない。でも、ゼンだけには背を向けてほしくなくて。だから、私は──


「待って……っ!」


 つい、呼び止めてしまったのかもしれない。

 私の言葉に足を止めるゼン。ゆっくりと振り返った彼はまた少しだけ驚いた表情をしていた。そして、小さく口元が動く。何かを呟いたように見えたそれは、私のもとまで届くことはない。
 彼はすぐに余所行きの表情を貼り付けてわざとらしく首をかしげた。


「聖女様に呼び止められるなど、至極光栄でございます」


 そう軽く頭を下げるゼン。「ですが」と、続ける彼が今から何を言おうとしているのか、彼を知る私には分かってしまった。だから、声を遮った。
 無礼だと思われてもいい。軽蔑されてもいい。それでも私は、最後に彼とグラスを合わせたくなった。それが最後だと分かった上で……。


「もしよろしければそのグラス、わたくしにひとつ、くださいませんか?」
「……申し訳ございません。これは聖女様とはいえお渡しすることは──」
「お願い。それ以上、何も求めないから……」


 私は今、どんな表情をしているのだろうか。いくらリリアが美しいとはいえ、今の私の表情はきっと酷いものだろう。


「……分かりました。では、こちらを」


 同情、だったのだと思う。でも彼は、私に最後をくれた。
 バルコニーに足を踏み入れ私のもとまで来た彼は、私に持っていたグラスを一つ差し出す。

 無意識だったのかもしれない。彼がここでグラスを渡すのは決まって(ベアトリーチェ)だけだったから。


「あぁ、申し訳ない。つい癖で──、っ」


 左手で受け取れるよう差し出されたグラス。しかしすぐにそれが間違いだとわかった彼はすぐにグラスを右手側に移動させようとし──私はそれを慣れた手つきで左手で受け取った。


「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 左手で受け取り礼をし、コツン、と彼のグラスに受け取ったグラスをぶつける。


「ありがとう」


 小さく、今にも消えてしまいそうなほど小さな声。きっとこの声は彼には聞こえていないだろう。


 グイっと(あお)るように飲み干し、空になったグラスをまるでシャンパンが入っているかのように回し月夜に照らす。
 グラス越しに見る月は相変わらず霞んで綺麗には見えない。


「ひと時の幸せな時間をありがとうございました。では、わたくしはこれで……」


 グラスを持ったまま、軽くスカートの布をつまみ頭を下げる。これまでに幾度となく繰り返してきた所作。これを次に彼の前でするときには、私たちは赤の他人だ。

 でも、私は満足していた。最後に彼と同じ時間を過ごすことができたこと。最後と分かった上で、短い時間とはいえ彼と共にいられたこと。


「さようなら、私の親友」


 彼に背を向け、カーテンに手を伸ばし小さく呟く。その声はすぐに空気に溶けて消えた。──はず、だった。


「……リーチェ?」
「っ、」


 背から聞こえる、呟くように呼ばれた私の声に私はピタリと足を止める。


「リーチェ、なのか……?」


 その声は今度は私の耳にしっかりと届く。
 私が自分の意志で振り返るよりも先に、掴まれた腕が引かれ私は彼と向き合う形に。


「何か、言ってくれ……。キミは、リーチェなのか……?」


 そんなわけないと言わなければ。そんなことあるはずがないでしょ、と。

 でも、私は動けなくなった。何も言えなくなってしまった。
 彼の縋るような、悲しげな瞳を見てしまったから……。
 

「……どうして、そう……思われるのですか……?」


 震える声を何とか振り絞る。
 どうしてかしら、胸がチクチクと痛む。……でも、人とは不思議な生き物ね。
 
 私は戸惑った。初めて同時に二つの感情に心を支配されることがあることを知ったから。私の胸には今、痛みとは別に、彼が私だと気づいてくれた嬉しさが共存している。
 それは言葉では上手く言い表せないほど、難しい感情だ。


「仕草が、似ていた……。彼女は左利きで、空になったグラスをまわし月を見る癖があった。いや、それよりも──」


 そう言って、彼は言葉を続けた。


「俺がここに来た時に見たキミが、ふとした瞬間のキミが……リーチェの姿と重なった」


 感情が溢れる。それは月夜に輝く一筋の涙となって頬を伝う。
 
 復讐するために、地獄へ落ちる覚悟だってあった。悪女には地獄へ落ちるのがお似合いだから、と。
 その覚悟は今でも変わっていない。でも、彼は私に気が付いてくれた。見た目も声も、何もかもが違う私に、彼だけが気づいてくれた。
 それに彼は私を覚えていてくれた。忘れずにいてくれた。それが、何よりも嬉しくて……


「ゼ、ン……」


 溢れる涙と共に出たのは、彼の名。
 止まることを知らない私の頬を伝う涙を、彼がそっと優しい手つきで拭う。


「リーチェなんだね。泣き顔は、あの頃のままだ」


 真っすぐに私へと向けられた視線。交わることのなかった視線は今、もう離れないようにと無意識に願っているかのようにお互いに逸らすことはない。

 ふわりと優しく笑うゼンの笑顔は、一か月前と何一つとして変わっていない。安心する、心地のいい笑顔だ。


「グズッ……それって、()の泣き顔がブスだって言いたいの?」
「いいや、世界一可愛いと言っているんだよ」
「ふふっ、悪女に可愛いだなんてそんなこと言うのはあなたくらいね」
「それは光栄だ。キミの可愛さを知っているのは俺だけでいい」


 懐かしくなる。最後の夜会の時も、彼とこんな会話をした気がする。
 たった1か月。でも、それは遥か遠い、もう二度と思い出すことすらできないはずだった過去。


 ふわり、と自分の羽織っていたジャケットを私の肩へと掛けてくれる。

 ──瞬間、心臓が大きく跳ねた。彼の手が少し触れた肩が熱い。一瞬にして彼の匂いに包まれた私。


 これまでに何度も彼の優しさを受け入れてきたが、こんなにも胸が跳ねたことは一度もない。シャンパンを飲んでもこんなにも体を熱くさせたことはない。これまで落ち着くと思っていた彼の匂いが、こんなにも胸をざわつかせたことはない。

 胸が、苦しくなる。さっきまでとは違う苦しみ。
 一番居心地のよかった彼の隣は、今は何よりも居心地が悪い。でも決して、離れたくはない。







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