この世界に最後の花火を
魔法の言葉の本当の意味
「みんな席につけよー。今から転校生を紹介するから、大人しくするように。特に古川と不和。お前らは普段からうるさすぎるから今日くらいは静かにしてくれよ。転校生が怖がるかもしれないから」
担任の先生に名指しで呼ばれる私の親友たち。どっちかと言ったら、悪い意味で呼ばれたのに2人は嬉しそうにしている。
私の予想だが、きっと二人には先生の声など微塵も届いていない。転校生が楽しみすぎて、他の音が全て雑音なのだろう。
二人の視線は先ほどから揺らぐことなく、一直線に教室の前方を眺めている。私の席は窓側の一番後ろの席なので、前の方に座っている彼らの様子は丸わかり。
二人して足元をバタつかせている様子を見ると、小学生の時の教室を思い出してしまう。当時から騒がしかった二人の記憶が蘇る。
二人を眺めていると、教室の右前方近くの席のクラスメイトたちがざわつき始める。何事かと思い、視線をざわついている方へと移すと、そこには芸能人顔負けの一人の男子の姿。
途端に教室中が、ライブのような空気に包まれてしまう。女子は黄色の歓声。男子は訳のわからぬ奇声を発している。どちらも欲に塗れた生き物にしか見えない。
教室の窓から入り込んでくる夏風に揺れる真っ黒な綺麗な髪の毛。すらりと伸びた身長に、女子のような白く透き通った肌。
漫画の世界の人かと錯覚が起きてしまいそうなほど、現実離れすぎる容姿に言葉が出てこない。
でも、私は興味がない。確かに、目を惹かれる容姿をしているが、興味があるかと言われたらそれはまた別の話。
不意に窓から見える夏の暑くも、爽やかな景色に目がつい移ってしまう。転校生には悪いかもしれないが、どうせ私と彼が仲良くなることなんてない。
なにせ、私は来年の夏を生きている確率は限りなく低いのだから。孤独感を胸に秘めながら、外を眺める様子はきっと淋しいものに違いない。
「ほら、静かにしろ。今から自己紹介するから、少しだけ大人しくしていてくれ」
先生が願ったのにもかかわらず、全く静かになることのないクラスメイトたち。こんなにうるさくなるなんて先生も予想していなかったのだろう。少しだけ先生が気の毒に思えてしまう。
"カッカッカッ"
彼が白いチョークを手に取り、黒板に何やら文字を書いていく。その瞬間、先生の言葉では治まらなかった喧騒がピタッと鳴り止んだ。誰もが黒板に書かれていく一文字一文字を見逃さないようにと。
まるで、吹奏楽の指揮者が演奏を止めるときの合図をしたかのように、ぴたりと。
みんなの視線は黒板に注がれているが、私の視線は未だ蚊帳の外。自分から外れているのだが...
私の視線の先には、蝉と並ぶ夏の代名詞・向日葵が校庭の隅に咲いている。どれもが、太陽の光を満遍なく吸収するように、元気に堂々と咲いている姿はなんとも誇らしい。
つい私と比較してしまう...病気が発覚してから私は、どんなことに対しても悲観的になってしまった。今までも日常生活の中で見てきたはずのものでさえ、疎ましく思ってしまったりと。
以前の私からは想像もつかないほどの病み具合。
蝶々が向日葵に近づき始めたところで、教室内が再びざわつき始める。
どうやら例の彼が、黒板に自分の名前を書き終えたらしい。それに反応した誰かに釣られて連鎖反応が起き、またクラスが賑やかになったようだ。
『柊冬夜』
雑に消された跡が残る黒板の中心に、綺麗に右に偏ることなく整えられた字で書かれた漢字三文字。彼の名前からして凛々しさを不思議と感じてしまう。
「柊冬夜かぁ。名前も容姿もかっこいいとか無敵だろ!」
「やばぁーい! 日向の100倍かっこいい!」
「はぁ?俺の方が全然かっこいいから!目おかしくなったのか千紗は」
「何言ってんの。日向はとうとう頭までおかしくなったのね」
二人のやりとりが加熱していき、教室もさらに盛り上がっていく。こうなったら、そう簡単にこのライブのような雰囲気を止めるのは容易いことではない。
ちらっと先生に目を向けたが、頭を抱えたままうなだれている。"これを一体誰が止めるのだろうか"と、その空気の外側から眺めるように見渡す。
あくまで私はこの集団の中には存在していないのだと、頭で思い込みながら。
「あ、あの僕の席。あそこでいいですかね?」
またしても彼の一声でピシャリと止んでしまう慌しかったクラスメイトたちの歓声。そして、瞬時に私の元へと流れてくる何十人もの視線。彼が指を刺していた座席は私の隣...いや何も置かれていないただの床。
「え、柊くんの席は反対の廊下側の1番後ろに用意してあるんだけど・・・」
気まずそうに先生が彼に問いかけるが、全く彼は先生の話を聞こうとしていない。ずっとこちらを眺めるばかりで、他には何も見えていないのではと思うほどの目力。
「あそこがいいんです。ダメですかね?」
「うーん、まぁいいでしょう。その代わり席の移動は自分でしてよ」
「はい、ありがとうございます」
どうして私の隣なのだろうか。一番後ろの席に変わりはないはずだし、外を眺めたいからと言っても窓に近い席に座っているのは私だ。だから、この席にこだわる理由が全く見つからない。
自己紹介を終えた彼が、クラスメイトたちが座っている座席の合間を通り抜けていく。その姿はまるで、モデルがランウェイを歩いているかのように様になっている。
「どうしよう、めっちゃいい匂いしたんだけど」
「ちょっと声大きい。聞こえちゃうよ」
ざわつく女子たち。"ふざけんな。あえて聞こえるように話しているんだろ"と心の中で悪態をつく。
そうやって、自分を意識してもらおうと思っているのだろうが、きっと彼は今までもそのような扱いを受けてきているはずなので効くわけがないと思う。
実際、全くその女子たちを見向きもしていなかった。顔には出さないが、内心面白くてつい笑うのを堪える。
性格が悪いと思ってしまうが、あと私はどれだけ生きられるのかということを天秤にかけると、いつもそんな自分を許してしまう。自分に甘いかもしれないが、あと一年だけは許してほしい。
そうしたら、私は綺麗さっぱりこの世からいなくなるから。体も魂も何も残らず、未練だけを残して...
「よろしく、僕の名前は柊冬夜って言います。あなたは?」
俯いていた視線を声がする方へと向けると、そこには先ほどまで黒板の前で自己紹介をしていた彼が目の前にいた。
当たり前かのように机と椅子をセットに手で持っている。『もうここが僕の席です』と言わんばかりの表情で。
それにどうして彼はもう一度私に自己紹介をしてきたのだろうか。そんなに自分をアピールでもしたいのか。
「・・・夏目火花です。よろしく」
「ほのか・・・漢字はどう書くの?」
「花火を逆にしてほのかです」
「へぇー、とても綺麗な名前だね。それに夏の申し子みたいなフルネームだ。君にぴったりだね」
そう言うと彼は手に持っていた机と椅子を床にそっとおき、ずっと前からここに自分の席があった振る舞いで席に着く。
もちろん今は、クラス中のスポットライトが彼に当たり続けている時間。当然、一言一句皆が私たちのやりとりを一部始終聞いていたのは言うまでもない。
別に視線はどうでも良かったが、面倒ごとだけは起きないでほしいと切実に願う。これだけ目を惹く彼なら、勘違いする女子もいずれこの中から出てきてもおかしくはないのだ。
私が話していたからなどの理由で、嫌がらせを受けるのだけはごめんだ。
彼に私の名前を教えた時、彼は私にぴったりだと言ったがどうしてなのだろうか。今の私からは微塵も夏らしさを感じられないと思うのだが...
どちらかというと、静かなる闇を含んだ冬の方が近い気もする。
彼に対する私の第一印象は、『変なおかしなやつ』だった。できるなら関わりたくない...
季節が移り変わるのと同じように、私の彼に対する印象も変わっていくのだが、この頃はまだ彼のことを何も知らなかったんだ。
今日は全校生徒たちが待ちに待った、夏休み前最後の登校日。もしかしたら、この夏休みを待ち遠しにしていないのは、私だけなのかもしれないが。
去年までは、夏休みは何をしようかと、夏休み一週間前から頭の中を色んなものが飛び交っていたが、今年はそれが一切ない。
考えても浮かんでくるのは、『これが最後の夏』だという悲観的な考えばかり。本当に嫌になる。
病気でここまで考え方まで変わってしまうなんて、思ってすらいなかった。よく、テレビなどのドキュメンタリーで病気と闘っている人の映像を目にするが、テレビに映っている人たちは皆一日一日を大切に一生懸命生きている。
私の目にですらそれは『美学』にも見えた。でも、実際はそんなに綺麗なものばかりではないのだ。病気になって初めてわかったこの胸の奥底から湧き出てくる絶望感と、完全なる諦め。
一体どう生きたらテレビの中に映る病気と闘う人たちみたく、私も心が強くなれるのだろうか。今の私からでは全く想像すらできない。
普段履いているシューズを袋の中に入れて、代わりの体育館シューズを取り出し、履き替える。普段校舎で履いているシューズよりも体育館専用のシューズの方が、履き心地は抜群。
ちょっとした衝撃を吸収してくれるような作りになっているため、歩きやすいのだ。
これから体育館で夏休み前の全校集会をするようなのだが、これがまたしんどい。
私たちの高校は全校生徒数は、だいたい千人近くいるだろう。それが、一斉に真夏の隙間風すら入ってこない体育館に密集するのだ。衣服を肌に身につけたままサウナに入っているような感覚。
毎年、何人かの生徒が熱中症や立ちくらみで倒れているのを目にする。私は今まで倒れたことはないが、座っているだけでも汗が首筋を伝ってくるので、ハンカチは絶対に必須。
今日のためだけにポケットに忍ばせておいたピンクの花柄のハンカチ。普段は何も入れていないポケットに、少し違和感を感じる。女子が普段からハンカチを持ち歩いていると思ったら、大間違い。
以外にもハンカチを持っていない女子の方が多かったりもする。むしろ男子の方がハンカチを使っていたりして...
体育館の端っこから、自分のクラスメイトたちが列を作って座っているところを目指す。キュッキュッと音を立てながら、ツルッとした床の上をひたすら歩く。
普通なら整列する順番は男女の出席番号順などが無難なのだろうけれど、なぜか私たちの学校は今の席順に整列するようになっている。
教室の右前から先頭...つまり私は列の最後尾。そして、もちろん隣に並ぶのは...
『あ、あれが噂の転校生か』
『何あれ、カッコ良すぎない』
『芸能人みたいなオーラ出てるって』
彼が体育館に入ってくるや否や、瞬時に皆の視線が彼へと注がれていく。
『圧倒的存在感』この言葉が彼より似合う一般人はいるのだろうか。私が今まで出会った人、通り過ぎた人の中にもちろんいるはずがなかった。
「僕が座るところってここでいいんだよね?」
またしても、普通に話しかけてくる彼。彼が転校してきてから既に一週間経ったものの、彼が自発的に話しかけている相手は見た感じいない。いつも相手から振られた話に会話するだけというもの。
それなのに、どういうわけか私には彼から遠慮なく話しかけてくる。理由はわからない。
「そ、そうだけど・・・」
「教えてくれてありがとね」
「どういたしまして」
「そうだ。夏目さんは夏休み中何してるの?」
あまりにも唐突すぎる内容に、体が反射的に身構えてしまう。決して仲がいいはずでもないのに。
「特に何もすることない・・・」
自分で言っといて急激に寂しさを感じてしまう。去年は確か...親友の二人と花火大会や海に遊びに行ったことをふと思い出す。
「じゃあ、僕にその時間くれないかな?」
「はい?」
「あ、ごめんね。わかりにくかったよね。良かったら夏休み中、僕と色々なところに行きませんか?」
「え・・・?」
何を言われたのかわからない。なぜ、彼は私のことを誘うのだろうか?何かしらの罰ゲームなのではないかと疑ってしまう。
罰ゲームでない限り、彼が私を誘うことなんてあり得ない。彼はこの学校の注目の的なのだから。
「もしかして、罰ゲームとか?」
彼の目がきょとんとしたまま私の瞳を捉える。それから数秒して彼の口から大きな笑い声が溢れていく。
「違うよ。面白いね、夏目さん。単純に僕が一緒に出かけたいなって思っただけなんだよ」
「ど、どうして私なの?」
「僕ね、こんな容姿でしょ?外を歩いていてもよく人に見られるし、前いた学校でも常に周りに人がいたんだ。いつでもどこでも周りの人の目には僕が映っていた。親の転勤でこの学校に転校してきたんだけど、『どうせこの学校でも持て囃される』って思ってたんだ。でもね、あの自己紹介した日。夏目さんだけが僕を見ていなかったんだ」
確かにあの時、私は窓の外に映る景色に意識を取られていた気がする。再び彼と目が合い、柔らかく微笑む彼の顔がこのむさ苦しい体育館には似つかわしいほど爽やかだった。
「そんなこともあったね」
「初めてだったんだ。あんなに興味なさそうだった人は。だから、ついついどんな人なのか気になってしまって、勢いで夏目さんの隣に席を選んだわけなんだ。ほんと強引でごめん!」
彼の目にはそんな風に私は映っていたらしい。確かに私は興味がない。でもそれは、彼に対してではなく全てに対して。
「そっか。なんかごめんね。興味なさそうって失礼だったよね」
「いや、全然!僕からしたらむしろ嬉しかったんだ。一体この人は何を考えているんだろうって、儚げな目で窓の外を眺めていたからさ」
儚げな目...自分を客観的に見たことがないからわからないが、周りからそう見えているのかと思うと気をつけないといけない。
誰にも私が残り一年の命だってことを知られるわけにはいかないから。余命宣告される前の自分になりきるしかない。
「いいよ。私でよければ」
「ん?」
「だから、私でよければ夏休み・・・」
「ほ、ほんとに!ありがとう。最高の夏にしようね」
満面の笑みで私の両手をグッと握ってくる彼。暑いせいだろうか、首元から汗が流れ落ちていく。
体育館はサウナのような暑さだったのに、私に突き刺さるような視線たちは驚くほど冷たかった。
校長先生の長いお話があと少しで終わろうとしていた。噂によると、この校長先生の長い話も『マニュアル』というものがあるらしい。
その話が本当なら校長先生もこんなに長々と、生徒に嫌われながら話さないといけないと考える可哀相にも見えてくる。
横を見ると、夏休みを楽しみに待つ小学生のような体全身からワクワク感を醸し出している彼の姿。一見クールに見える彼の意外な一面に、なぜか心が乱れてしまう。
校長先生の話だけは起立した状態で聞かないといけないのが、うちの学校のルール。こんなルールがあるから毎年、倒れる人がいるのに何も学ばない教師たちにもつい苛立ってしまう。
苛立ったところでそのルールが改正されるわけでもない。私たちはルールに従い、他のみんなと同じように過ごすしかできないのだ。これが、学校のいいところであり悪いところでもある。
少しだけはみ出したものがいれば、その人が『異物』として扱われてしまう。私たちはまだ高校生で社会を知らない。ただこれだけは言える、私たちにとって学校は絶対なのだと。
少しでも間違った行動をしてしまえば、すぐにそのコミュニティから外れてしまう。それが、何を意味しているか。
待っているのは三年間、『孤独』という名の地獄。それだけはいくらなんでも、あと一年で死んでしまうからと言っても、無視はできない。
『孤独』ほど人にとって辛いものは存在しないと私は思っている。
「・・・さん。・・・目さん。夏目さん!大丈夫?顔色が」
そこで私の視界は真っ暗闇へと連れ去られてしまった。
蝉が元気に鳴いているのが、目を閉じながらでもわかるくらい響き渡っている。ゆっくりと閉じている目を開けると、真っ白い天井についている蛍光灯の光が目を突き刺す。
「ここは・・・どこ?」
ふかふかのベッドの上に布団をかけられた状態で寝ている私。周りはレース上のカーテンに囲まれていてどこかのお姫様の気分。
一体何があったのか全く思い出せないが、ここが保健室なのだけはわかった。薬品の匂いがほんのりと香る。
「あ、起きた!日向。目覚ましたよ、火花」
「お、やっとか。まったく、いつまで寝てんだよ。さっさと起きろ!」
「素直じゃないなー。さっきまで『火花大丈夫かな』って狼狽えていたくせに」
「お、おい。それだけは言うなや!」
周りを見渡すと、私を左右から囲むように千紗と日向の顔が間近に迫っていた。日向に関しては、よくわからないが鼻息が先ほどからずっと当たっている。妙にくすぐったくて、背筋がゾクっとしてしまう。
「2人とも顔近いよ。心配しすぎだよ。もう大丈夫だから!」
本当は全然大丈夫ではなかった。私が倒れた原因がただの熱中症や貧血ならいいのだが、もし心臓が原因だとしたらと思うと冷や汗が止まらない。
「火花、さっきから汗すごいけど大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと布団が暑くてさ。」
「そう、それならいいんだけど」
『大丈夫』この言葉を口から吐き出している時ほど、人は大丈夫ではないのだ。今も、心配が優ってしまって判断力が鈍ってしまう。
『大丈夫』と言えば、それ以上深入りしてくる人はなかなかいない。魔法の言葉でもあり、暗闇に取り残されるような孤立する言葉でもある。私は昔、この言葉についてお父さんに教わったことがある。
『大丈夫と言う言葉の裏には必ず意味がある。その言葉を使っている時、その人は苦しんでいるんだよ。だから、深くは聞かなくてもいい。ただ、その時はその人の側にそっといなさい』
私はこの言葉を小さい頃から父に聞かされ続けてきた。父の言っていたことは正しかった。
中学生の時、失恋した友達がいた。その時だって、彼女は一切苦しそうな表情をせずに『大丈夫だから、心配しないで』と口にしていた。
でも、私には通用しなかった。父の教えがあったから。その後、彼女は泣きながら全てのことを洗いざらい吐き出し、話し終えた後にはスッキリした顔に変わり果てていた。
まるで、何かから解き放たれたように。それ以来、私は人がよく口にするその魔法の言葉を全く信じていない。
私は二人に気づかれずに魔法の言葉を唱えたんだ。バレていないという安堵と、また嘘をついた罪悪感にたちまち襲われる。
「二人とも心配してくれてありがとね。私はもう大丈夫だから、先に教室に戻ってて。」
「ま、火花がそう言うなら俺たちは先に戻るわ。もう少し休んでから来いよ」
「あ、もしかして二人がここまで倒れた私を運んでくれたの?」
「さぁな。俺たちではないかもしれないけどな」
何やら意味ありげなニヤニヤ顔で、保健室から出ていく二人。二人が出ていくのを最後まで確認し、再びベッドに倒れ込むように力を抜いていく。
ボフッと音を立てながら、私の体を包み込んでいくふかふかのベッド。横になると、保健室の天井は思っているよりも高いのだなと感じる。
普段過ごしている教室も寝そべったらこんなに天井が高く見えるのかと思うと、不思議なものだ。授業している時は、何も感じないのに。
「ふぁ〜、疲れるな・・・隠すのって難しいや」
「何を隠しているの?」
私の他に誰もいないはずの空間から誰かの声がする。低い耳に残り続ける声。
保健室の先生は確か、会議でいないと千紗が言っていたので、当分はここにくることはないはず。
低い声でもこれは日向の声ではない。そこに誰がいるのか、怖くて体が硬直してしまう。
「だ、だれ・・・なの」
消えてしまいそうなほどのか弱い声を絞り出し、そこにいるはずであろう相手に尋ねる。
「あ、ごめんね。驚かせちゃったかな。僕です、冬夜です」
思いもよらない人物の登場に、勢いよく上半身を起こして私たちを隔てている一枚の薄いカーテンをそーっと覗くように開く。
丸いパイプ椅子に腰掛けている彼が目に映り込む。
「え、あ。どうしているの・・・」
「え、夏目さんのことが心配だったからに決まってるじゃないですか。急に僕の真横で倒れるから」
そうだ。私が倒れたのは、集会の途中だったんだ。彼には申し訳ないことをしてしまった。
隣にいた人が突然倒れたら、誰だって心配するに決まっている。それでもわざわざこうして保健室まで来る理由はあるのだろうか。
「ごめん。心配かけたよね・・・もう私は大丈夫だから教室に戻っていいよ」
彼の眉がピクリと動く。
「嘘だよね、それ」
「え、なにが?」
本当は何を言われているのかは、わかっている。でも、あえて気付きたくなくて知らないふりをしてしまう私。
「大丈夫じゃないでしょ」
落ち着いた冷静すぎる彼の言葉に思わず、目を合わせているのが辛くなってしまい目線を逸らす。
「大丈夫だよ・・・」
「僕もね、よく『大丈夫』って言葉使うんだ。でも、実際は全然大丈夫じゃない。助けてほしいけど、自分の弱い姿を人に知られたくないっていう防衛反応?みたいなのが出ちゃうんだ。僕のは強がりだと思うけどね。だから、夏目さんの気持ちがわかるよ」
そっか...私以外にも魔法の言葉の本当の意味を知っている人がいたんだ。
「私たち同じなのかもね。似たもの同士ってやつ?」
「そうだね、似たもの同士だ。さっき、聞いたことは忘れておくよ。もし、話したくなったら僕はいつでも聞くからね」
「うん、ありがと。助かるよ」
「じゃ、僕も先に戻ってるね。また後でね」
たったこれだけの会話。それなのに、私たちの離れていた距離がほんの少し縮まった気がしたんだ。
私を見つめる彼の顔は太陽のように眩しく、温かみがあった。花火のように満開の笑顔だった...そう、花火の一瞬だけ夜に咲き誇る明るさみたく。
私は彼の弱さにこの時、微塵も気がつくことが出来なかった。隠された彼の顔の寂しげな瞳を見過ごしていたんだ。
互いに秘密を抱えた私たち。心の距離はまだまだ遠いけれど、2人の関係性は友達へと近づいた気がした。
もう夏休みが明日に迫っている。窓から入り込んでくる生ぬるい夏特有のもわっとした風が白いベールを靡かせる。
「柊冬夜か・・・」
1人で囁いた声は見事に蝉によって打ち消されたが、私の耳には彼の名前の響きだけが残り続けた。
担任の先生に名指しで呼ばれる私の親友たち。どっちかと言ったら、悪い意味で呼ばれたのに2人は嬉しそうにしている。
私の予想だが、きっと二人には先生の声など微塵も届いていない。転校生が楽しみすぎて、他の音が全て雑音なのだろう。
二人の視線は先ほどから揺らぐことなく、一直線に教室の前方を眺めている。私の席は窓側の一番後ろの席なので、前の方に座っている彼らの様子は丸わかり。
二人して足元をバタつかせている様子を見ると、小学生の時の教室を思い出してしまう。当時から騒がしかった二人の記憶が蘇る。
二人を眺めていると、教室の右前方近くの席のクラスメイトたちがざわつき始める。何事かと思い、視線をざわついている方へと移すと、そこには芸能人顔負けの一人の男子の姿。
途端に教室中が、ライブのような空気に包まれてしまう。女子は黄色の歓声。男子は訳のわからぬ奇声を発している。どちらも欲に塗れた生き物にしか見えない。
教室の窓から入り込んでくる夏風に揺れる真っ黒な綺麗な髪の毛。すらりと伸びた身長に、女子のような白く透き通った肌。
漫画の世界の人かと錯覚が起きてしまいそうなほど、現実離れすぎる容姿に言葉が出てこない。
でも、私は興味がない。確かに、目を惹かれる容姿をしているが、興味があるかと言われたらそれはまた別の話。
不意に窓から見える夏の暑くも、爽やかな景色に目がつい移ってしまう。転校生には悪いかもしれないが、どうせ私と彼が仲良くなることなんてない。
なにせ、私は来年の夏を生きている確率は限りなく低いのだから。孤独感を胸に秘めながら、外を眺める様子はきっと淋しいものに違いない。
「ほら、静かにしろ。今から自己紹介するから、少しだけ大人しくしていてくれ」
先生が願ったのにもかかわらず、全く静かになることのないクラスメイトたち。こんなにうるさくなるなんて先生も予想していなかったのだろう。少しだけ先生が気の毒に思えてしまう。
"カッカッカッ"
彼が白いチョークを手に取り、黒板に何やら文字を書いていく。その瞬間、先生の言葉では治まらなかった喧騒がピタッと鳴り止んだ。誰もが黒板に書かれていく一文字一文字を見逃さないようにと。
まるで、吹奏楽の指揮者が演奏を止めるときの合図をしたかのように、ぴたりと。
みんなの視線は黒板に注がれているが、私の視線は未だ蚊帳の外。自分から外れているのだが...
私の視線の先には、蝉と並ぶ夏の代名詞・向日葵が校庭の隅に咲いている。どれもが、太陽の光を満遍なく吸収するように、元気に堂々と咲いている姿はなんとも誇らしい。
つい私と比較してしまう...病気が発覚してから私は、どんなことに対しても悲観的になってしまった。今までも日常生活の中で見てきたはずのものでさえ、疎ましく思ってしまったりと。
以前の私からは想像もつかないほどの病み具合。
蝶々が向日葵に近づき始めたところで、教室内が再びざわつき始める。
どうやら例の彼が、黒板に自分の名前を書き終えたらしい。それに反応した誰かに釣られて連鎖反応が起き、またクラスが賑やかになったようだ。
『柊冬夜』
雑に消された跡が残る黒板の中心に、綺麗に右に偏ることなく整えられた字で書かれた漢字三文字。彼の名前からして凛々しさを不思議と感じてしまう。
「柊冬夜かぁ。名前も容姿もかっこいいとか無敵だろ!」
「やばぁーい! 日向の100倍かっこいい!」
「はぁ?俺の方が全然かっこいいから!目おかしくなったのか千紗は」
「何言ってんの。日向はとうとう頭までおかしくなったのね」
二人のやりとりが加熱していき、教室もさらに盛り上がっていく。こうなったら、そう簡単にこのライブのような雰囲気を止めるのは容易いことではない。
ちらっと先生に目を向けたが、頭を抱えたままうなだれている。"これを一体誰が止めるのだろうか"と、その空気の外側から眺めるように見渡す。
あくまで私はこの集団の中には存在していないのだと、頭で思い込みながら。
「あ、あの僕の席。あそこでいいですかね?」
またしても彼の一声でピシャリと止んでしまう慌しかったクラスメイトたちの歓声。そして、瞬時に私の元へと流れてくる何十人もの視線。彼が指を刺していた座席は私の隣...いや何も置かれていないただの床。
「え、柊くんの席は反対の廊下側の1番後ろに用意してあるんだけど・・・」
気まずそうに先生が彼に問いかけるが、全く彼は先生の話を聞こうとしていない。ずっとこちらを眺めるばかりで、他には何も見えていないのではと思うほどの目力。
「あそこがいいんです。ダメですかね?」
「うーん、まぁいいでしょう。その代わり席の移動は自分でしてよ」
「はい、ありがとうございます」
どうして私の隣なのだろうか。一番後ろの席に変わりはないはずだし、外を眺めたいからと言っても窓に近い席に座っているのは私だ。だから、この席にこだわる理由が全く見つからない。
自己紹介を終えた彼が、クラスメイトたちが座っている座席の合間を通り抜けていく。その姿はまるで、モデルがランウェイを歩いているかのように様になっている。
「どうしよう、めっちゃいい匂いしたんだけど」
「ちょっと声大きい。聞こえちゃうよ」
ざわつく女子たち。"ふざけんな。あえて聞こえるように話しているんだろ"と心の中で悪態をつく。
そうやって、自分を意識してもらおうと思っているのだろうが、きっと彼は今までもそのような扱いを受けてきているはずなので効くわけがないと思う。
実際、全くその女子たちを見向きもしていなかった。顔には出さないが、内心面白くてつい笑うのを堪える。
性格が悪いと思ってしまうが、あと私はどれだけ生きられるのかということを天秤にかけると、いつもそんな自分を許してしまう。自分に甘いかもしれないが、あと一年だけは許してほしい。
そうしたら、私は綺麗さっぱりこの世からいなくなるから。体も魂も何も残らず、未練だけを残して...
「よろしく、僕の名前は柊冬夜って言います。あなたは?」
俯いていた視線を声がする方へと向けると、そこには先ほどまで黒板の前で自己紹介をしていた彼が目の前にいた。
当たり前かのように机と椅子をセットに手で持っている。『もうここが僕の席です』と言わんばかりの表情で。
それにどうして彼はもう一度私に自己紹介をしてきたのだろうか。そんなに自分をアピールでもしたいのか。
「・・・夏目火花です。よろしく」
「ほのか・・・漢字はどう書くの?」
「花火を逆にしてほのかです」
「へぇー、とても綺麗な名前だね。それに夏の申し子みたいなフルネームだ。君にぴったりだね」
そう言うと彼は手に持っていた机と椅子を床にそっとおき、ずっと前からここに自分の席があった振る舞いで席に着く。
もちろん今は、クラス中のスポットライトが彼に当たり続けている時間。当然、一言一句皆が私たちのやりとりを一部始終聞いていたのは言うまでもない。
別に視線はどうでも良かったが、面倒ごとだけは起きないでほしいと切実に願う。これだけ目を惹く彼なら、勘違いする女子もいずれこの中から出てきてもおかしくはないのだ。
私が話していたからなどの理由で、嫌がらせを受けるのだけはごめんだ。
彼に私の名前を教えた時、彼は私にぴったりだと言ったがどうしてなのだろうか。今の私からは微塵も夏らしさを感じられないと思うのだが...
どちらかというと、静かなる闇を含んだ冬の方が近い気もする。
彼に対する私の第一印象は、『変なおかしなやつ』だった。できるなら関わりたくない...
季節が移り変わるのと同じように、私の彼に対する印象も変わっていくのだが、この頃はまだ彼のことを何も知らなかったんだ。
今日は全校生徒たちが待ちに待った、夏休み前最後の登校日。もしかしたら、この夏休みを待ち遠しにしていないのは、私だけなのかもしれないが。
去年までは、夏休みは何をしようかと、夏休み一週間前から頭の中を色んなものが飛び交っていたが、今年はそれが一切ない。
考えても浮かんでくるのは、『これが最後の夏』だという悲観的な考えばかり。本当に嫌になる。
病気でここまで考え方まで変わってしまうなんて、思ってすらいなかった。よく、テレビなどのドキュメンタリーで病気と闘っている人の映像を目にするが、テレビに映っている人たちは皆一日一日を大切に一生懸命生きている。
私の目にですらそれは『美学』にも見えた。でも、実際はそんなに綺麗なものばかりではないのだ。病気になって初めてわかったこの胸の奥底から湧き出てくる絶望感と、完全なる諦め。
一体どう生きたらテレビの中に映る病気と闘う人たちみたく、私も心が強くなれるのだろうか。今の私からでは全く想像すらできない。
普段履いているシューズを袋の中に入れて、代わりの体育館シューズを取り出し、履き替える。普段校舎で履いているシューズよりも体育館専用のシューズの方が、履き心地は抜群。
ちょっとした衝撃を吸収してくれるような作りになっているため、歩きやすいのだ。
これから体育館で夏休み前の全校集会をするようなのだが、これがまたしんどい。
私たちの高校は全校生徒数は、だいたい千人近くいるだろう。それが、一斉に真夏の隙間風すら入ってこない体育館に密集するのだ。衣服を肌に身につけたままサウナに入っているような感覚。
毎年、何人かの生徒が熱中症や立ちくらみで倒れているのを目にする。私は今まで倒れたことはないが、座っているだけでも汗が首筋を伝ってくるので、ハンカチは絶対に必須。
今日のためだけにポケットに忍ばせておいたピンクの花柄のハンカチ。普段は何も入れていないポケットに、少し違和感を感じる。女子が普段からハンカチを持ち歩いていると思ったら、大間違い。
以外にもハンカチを持っていない女子の方が多かったりもする。むしろ男子の方がハンカチを使っていたりして...
体育館の端っこから、自分のクラスメイトたちが列を作って座っているところを目指す。キュッキュッと音を立てながら、ツルッとした床の上をひたすら歩く。
普通なら整列する順番は男女の出席番号順などが無難なのだろうけれど、なぜか私たちの学校は今の席順に整列するようになっている。
教室の右前から先頭...つまり私は列の最後尾。そして、もちろん隣に並ぶのは...
『あ、あれが噂の転校生か』
『何あれ、カッコ良すぎない』
『芸能人みたいなオーラ出てるって』
彼が体育館に入ってくるや否や、瞬時に皆の視線が彼へと注がれていく。
『圧倒的存在感』この言葉が彼より似合う一般人はいるのだろうか。私が今まで出会った人、通り過ぎた人の中にもちろんいるはずがなかった。
「僕が座るところってここでいいんだよね?」
またしても、普通に話しかけてくる彼。彼が転校してきてから既に一週間経ったものの、彼が自発的に話しかけている相手は見た感じいない。いつも相手から振られた話に会話するだけというもの。
それなのに、どういうわけか私には彼から遠慮なく話しかけてくる。理由はわからない。
「そ、そうだけど・・・」
「教えてくれてありがとね」
「どういたしまして」
「そうだ。夏目さんは夏休み中何してるの?」
あまりにも唐突すぎる内容に、体が反射的に身構えてしまう。決して仲がいいはずでもないのに。
「特に何もすることない・・・」
自分で言っといて急激に寂しさを感じてしまう。去年は確か...親友の二人と花火大会や海に遊びに行ったことをふと思い出す。
「じゃあ、僕にその時間くれないかな?」
「はい?」
「あ、ごめんね。わかりにくかったよね。良かったら夏休み中、僕と色々なところに行きませんか?」
「え・・・?」
何を言われたのかわからない。なぜ、彼は私のことを誘うのだろうか?何かしらの罰ゲームなのではないかと疑ってしまう。
罰ゲームでない限り、彼が私を誘うことなんてあり得ない。彼はこの学校の注目の的なのだから。
「もしかして、罰ゲームとか?」
彼の目がきょとんとしたまま私の瞳を捉える。それから数秒して彼の口から大きな笑い声が溢れていく。
「違うよ。面白いね、夏目さん。単純に僕が一緒に出かけたいなって思っただけなんだよ」
「ど、どうして私なの?」
「僕ね、こんな容姿でしょ?外を歩いていてもよく人に見られるし、前いた学校でも常に周りに人がいたんだ。いつでもどこでも周りの人の目には僕が映っていた。親の転勤でこの学校に転校してきたんだけど、『どうせこの学校でも持て囃される』って思ってたんだ。でもね、あの自己紹介した日。夏目さんだけが僕を見ていなかったんだ」
確かにあの時、私は窓の外に映る景色に意識を取られていた気がする。再び彼と目が合い、柔らかく微笑む彼の顔がこのむさ苦しい体育館には似つかわしいほど爽やかだった。
「そんなこともあったね」
「初めてだったんだ。あんなに興味なさそうだった人は。だから、ついついどんな人なのか気になってしまって、勢いで夏目さんの隣に席を選んだわけなんだ。ほんと強引でごめん!」
彼の目にはそんな風に私は映っていたらしい。確かに私は興味がない。でもそれは、彼に対してではなく全てに対して。
「そっか。なんかごめんね。興味なさそうって失礼だったよね」
「いや、全然!僕からしたらむしろ嬉しかったんだ。一体この人は何を考えているんだろうって、儚げな目で窓の外を眺めていたからさ」
儚げな目...自分を客観的に見たことがないからわからないが、周りからそう見えているのかと思うと気をつけないといけない。
誰にも私が残り一年の命だってことを知られるわけにはいかないから。余命宣告される前の自分になりきるしかない。
「いいよ。私でよければ」
「ん?」
「だから、私でよければ夏休み・・・」
「ほ、ほんとに!ありがとう。最高の夏にしようね」
満面の笑みで私の両手をグッと握ってくる彼。暑いせいだろうか、首元から汗が流れ落ちていく。
体育館はサウナのような暑さだったのに、私に突き刺さるような視線たちは驚くほど冷たかった。
校長先生の長いお話があと少しで終わろうとしていた。噂によると、この校長先生の長い話も『マニュアル』というものがあるらしい。
その話が本当なら校長先生もこんなに長々と、生徒に嫌われながら話さないといけないと考える可哀相にも見えてくる。
横を見ると、夏休みを楽しみに待つ小学生のような体全身からワクワク感を醸し出している彼の姿。一見クールに見える彼の意外な一面に、なぜか心が乱れてしまう。
校長先生の話だけは起立した状態で聞かないといけないのが、うちの学校のルール。こんなルールがあるから毎年、倒れる人がいるのに何も学ばない教師たちにもつい苛立ってしまう。
苛立ったところでそのルールが改正されるわけでもない。私たちはルールに従い、他のみんなと同じように過ごすしかできないのだ。これが、学校のいいところであり悪いところでもある。
少しだけはみ出したものがいれば、その人が『異物』として扱われてしまう。私たちはまだ高校生で社会を知らない。ただこれだけは言える、私たちにとって学校は絶対なのだと。
少しでも間違った行動をしてしまえば、すぐにそのコミュニティから外れてしまう。それが、何を意味しているか。
待っているのは三年間、『孤独』という名の地獄。それだけはいくらなんでも、あと一年で死んでしまうからと言っても、無視はできない。
『孤独』ほど人にとって辛いものは存在しないと私は思っている。
「・・・さん。・・・目さん。夏目さん!大丈夫?顔色が」
そこで私の視界は真っ暗闇へと連れ去られてしまった。
蝉が元気に鳴いているのが、目を閉じながらでもわかるくらい響き渡っている。ゆっくりと閉じている目を開けると、真っ白い天井についている蛍光灯の光が目を突き刺す。
「ここは・・・どこ?」
ふかふかのベッドの上に布団をかけられた状態で寝ている私。周りはレース上のカーテンに囲まれていてどこかのお姫様の気分。
一体何があったのか全く思い出せないが、ここが保健室なのだけはわかった。薬品の匂いがほんのりと香る。
「あ、起きた!日向。目覚ましたよ、火花」
「お、やっとか。まったく、いつまで寝てんだよ。さっさと起きろ!」
「素直じゃないなー。さっきまで『火花大丈夫かな』って狼狽えていたくせに」
「お、おい。それだけは言うなや!」
周りを見渡すと、私を左右から囲むように千紗と日向の顔が間近に迫っていた。日向に関しては、よくわからないが鼻息が先ほどからずっと当たっている。妙にくすぐったくて、背筋がゾクっとしてしまう。
「2人とも顔近いよ。心配しすぎだよ。もう大丈夫だから!」
本当は全然大丈夫ではなかった。私が倒れた原因がただの熱中症や貧血ならいいのだが、もし心臓が原因だとしたらと思うと冷や汗が止まらない。
「火花、さっきから汗すごいけど大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと布団が暑くてさ。」
「そう、それならいいんだけど」
『大丈夫』この言葉を口から吐き出している時ほど、人は大丈夫ではないのだ。今も、心配が優ってしまって判断力が鈍ってしまう。
『大丈夫』と言えば、それ以上深入りしてくる人はなかなかいない。魔法の言葉でもあり、暗闇に取り残されるような孤立する言葉でもある。私は昔、この言葉についてお父さんに教わったことがある。
『大丈夫と言う言葉の裏には必ず意味がある。その言葉を使っている時、その人は苦しんでいるんだよ。だから、深くは聞かなくてもいい。ただ、その時はその人の側にそっといなさい』
私はこの言葉を小さい頃から父に聞かされ続けてきた。父の言っていたことは正しかった。
中学生の時、失恋した友達がいた。その時だって、彼女は一切苦しそうな表情をせずに『大丈夫だから、心配しないで』と口にしていた。
でも、私には通用しなかった。父の教えがあったから。その後、彼女は泣きながら全てのことを洗いざらい吐き出し、話し終えた後にはスッキリした顔に変わり果てていた。
まるで、何かから解き放たれたように。それ以来、私は人がよく口にするその魔法の言葉を全く信じていない。
私は二人に気づかれずに魔法の言葉を唱えたんだ。バレていないという安堵と、また嘘をついた罪悪感にたちまち襲われる。
「二人とも心配してくれてありがとね。私はもう大丈夫だから、先に教室に戻ってて。」
「ま、火花がそう言うなら俺たちは先に戻るわ。もう少し休んでから来いよ」
「あ、もしかして二人がここまで倒れた私を運んでくれたの?」
「さぁな。俺たちではないかもしれないけどな」
何やら意味ありげなニヤニヤ顔で、保健室から出ていく二人。二人が出ていくのを最後まで確認し、再びベッドに倒れ込むように力を抜いていく。
ボフッと音を立てながら、私の体を包み込んでいくふかふかのベッド。横になると、保健室の天井は思っているよりも高いのだなと感じる。
普段過ごしている教室も寝そべったらこんなに天井が高く見えるのかと思うと、不思議なものだ。授業している時は、何も感じないのに。
「ふぁ〜、疲れるな・・・隠すのって難しいや」
「何を隠しているの?」
私の他に誰もいないはずの空間から誰かの声がする。低い耳に残り続ける声。
保健室の先生は確か、会議でいないと千紗が言っていたので、当分はここにくることはないはず。
低い声でもこれは日向の声ではない。そこに誰がいるのか、怖くて体が硬直してしまう。
「だ、だれ・・・なの」
消えてしまいそうなほどのか弱い声を絞り出し、そこにいるはずであろう相手に尋ねる。
「あ、ごめんね。驚かせちゃったかな。僕です、冬夜です」
思いもよらない人物の登場に、勢いよく上半身を起こして私たちを隔てている一枚の薄いカーテンをそーっと覗くように開く。
丸いパイプ椅子に腰掛けている彼が目に映り込む。
「え、あ。どうしているの・・・」
「え、夏目さんのことが心配だったからに決まってるじゃないですか。急に僕の真横で倒れるから」
そうだ。私が倒れたのは、集会の途中だったんだ。彼には申し訳ないことをしてしまった。
隣にいた人が突然倒れたら、誰だって心配するに決まっている。それでもわざわざこうして保健室まで来る理由はあるのだろうか。
「ごめん。心配かけたよね・・・もう私は大丈夫だから教室に戻っていいよ」
彼の眉がピクリと動く。
「嘘だよね、それ」
「え、なにが?」
本当は何を言われているのかは、わかっている。でも、あえて気付きたくなくて知らないふりをしてしまう私。
「大丈夫じゃないでしょ」
落ち着いた冷静すぎる彼の言葉に思わず、目を合わせているのが辛くなってしまい目線を逸らす。
「大丈夫だよ・・・」
「僕もね、よく『大丈夫』って言葉使うんだ。でも、実際は全然大丈夫じゃない。助けてほしいけど、自分の弱い姿を人に知られたくないっていう防衛反応?みたいなのが出ちゃうんだ。僕のは強がりだと思うけどね。だから、夏目さんの気持ちがわかるよ」
そっか...私以外にも魔法の言葉の本当の意味を知っている人がいたんだ。
「私たち同じなのかもね。似たもの同士ってやつ?」
「そうだね、似たもの同士だ。さっき、聞いたことは忘れておくよ。もし、話したくなったら僕はいつでも聞くからね」
「うん、ありがと。助かるよ」
「じゃ、僕も先に戻ってるね。また後でね」
たったこれだけの会話。それなのに、私たちの離れていた距離がほんの少し縮まった気がしたんだ。
私を見つめる彼の顔は太陽のように眩しく、温かみがあった。花火のように満開の笑顔だった...そう、花火の一瞬だけ夜に咲き誇る明るさみたく。
私は彼の弱さにこの時、微塵も気がつくことが出来なかった。隠された彼の顔の寂しげな瞳を見過ごしていたんだ。
互いに秘密を抱えた私たち。心の距離はまだまだ遠いけれど、2人の関係性は友達へと近づいた気がした。
もう夏休みが明日に迫っている。窓から入り込んでくる生ぬるい夏特有のもわっとした風が白いベールを靡かせる。
「柊冬夜か・・・」
1人で囁いた声は見事に蝉によって打ち消されたが、私の耳には彼の名前の響きだけが残り続けた。