この世界に最後の花火を
溶けたアイスたち
「暑い・・・」
夏休みが始まって、すでに一週間が経過していた。時間だけが過ぎていくばかりで、一切夏休みの課題にも手をつけていない。なんの意味もない無意味な日々を過ごしている。
一週間前のあの日。忘れたくても忘れられない日になった。教室に戻った後、なぜかクラスメイトたちの奇妙な視線が私に刺さり続けた。
どの視線も冷たいナイフのように私へと鋭く突き刺さる。3つほど、温かい視線もあったが。
警戒しながら自分の席に座ると、さらにその視線が強まっていくのが感じられるほど、私は睨まれていた。
"もしかして何かしたのかな"と不安になっていたところで、隣の彼がとんでもないことを口にしたのだ。
『ごめんね。僕がお姫様抱っこなんてしたから・・・夏目さんが心配で他に思いつかなくて、咄嗟にしちゃった』
私はその言葉を聞いた途端に、納得してしまった。この視線は私に対する嫉妬なのだと。
心臓のことがバレたのではとヒヤッとしたが、どうやら違ったようで一安心...なんてできるはずがなかった。
放課後、彼を呼び出し怒ったのが夏休み前最後の私たちの会話だった。
彼は私にひたすら謝っていたが、今となって思えば私はなんて酷いやつなんだと思ってしまう。彼は必死になって私を保健室に連れて行ってくれたのに、怒鳴りつけるなんて。
今度あったら謝ろうと思って、夏休みに突入したのはいいものの、肝心の連絡先を知らない。
連絡先を知らないのでは、どう頑張ったところで偶然会わない限り彼と会うことはないだろう。
それにしても、暑い。
エアコンをつけたいのだが、生憎今はフィルターを掃除中で明日までは使えないらしい。代わりに部屋に涼しい空気を循環させるために窓を全開にしているが、入ってくるのはむさ苦しい風ばかり。
家の中にいるのに、背中から汗が流れてくるのがわかる。これでは、外にいても家の中にいても同じなのではとさえ思ってしまう。
「あぁ〜、何もしたくはないけど・・・アイスは食べたいな」
リビングにある冷凍庫の中を物色するが、出てくるのは冷凍食品の数々。どこを探しても出てくるのは弁当のおかずになりそうなものばかり。
多少のめんどくささはあるけれど、欲に負けてしまいアイスを買いに行くことを決める。どうせなら、当分の間は買いに行かなくて済むように多めに買っておこう。
上は白い半袖のシャツ、下はショートパンツに着替える。軽装なのがまた動きやすくて風通りが気持ちいい。
サンダルに足を通し、念の為鏡で自分の姿を確認する。
「よーし、おっけー」
これでも一応女の子なので、身だしなみだけはしっかりしておきたい。
玄関を開けると、また家の中とは違う別の暑さが私の全身を照らす。ジワジワと眩しいくらいに輝きを放っている太陽。
今朝のニュースでアナウンサーが話していた今日の気温は、確か35度。ここ最近で、今日は一段と暑いらしい。
家を出てものの数分なのにもかかわらず、額から溢れ出てくる汗の量が尋常じゃない。
家を出てくる前に確認したはずの前髪が、ベッタリと汗でおでこに張り付いてるのがわかる。
これでは前髪を整えた意味がない。
この状態になってしまっては、もう仕方がないので諦めることにしてひたすらコンビニを目指す。
コンビニに行った後は、家に帰ってまたダラダラするだけなのだから。
十分ほど歩いたところで、コンビニが見えてくる。夏休みということもあり、店の前には小学生の集団がアイスを片手に楽しそうに何やら話をしている。
何人かのアイスが溶けかかって、今にも手に垂れそうなのに話に夢中で気付く様子がない。
伝えてあげようか迷った末に、通り側に『アイス溶けるよ〜』とだけ囁くように伝える。
「ありがとう!お姉ちゃん」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥底に沈み込んでくるような温かな感覚が残る。
最近は忘れていたこの感覚が懐かしい。
ドアの前に立つとセンサーが反応して開く自動ドア。その瞬間、コンビニ内の冷えた空気が一気に押し寄せくる。
夏のコンビニはマジで天国そのもの。だって、扉が開いただけなのにさっきまでの汗が嘘かのように引いていく。
二つの境界線の上に佇む私。躊躇うことなく私は天国へと足を伸ばした。
全身が快適な温度に包まれる。ずっとこの場所に留まっていたいが、それは迷惑なのである程度涼んだら出ていこう。
一直線にアイスコーナーへと向かい、アイスがたくさん詰まっているBOXを開ける。
店内の温度よりもさらに冷えた世界がそこには広がっていた。ずっとそこに入れていたら、凍ってしまいそうなくらいこの中は寒い。
ふいに、私の心臓も冷凍保存されてしまえばいいのにと思ってしまう。そしたら、先の未来でまた私は火花として生きることができるかもしれないから。
色とりどりのアイスたちが眠っている。私の手の温度で眠っているアイスたちをそっと起こしてあげようと優しく手で掴む。
冷たい...外が夏だとは考えられないくらい。
無難なバニラアイスと期間限定のかき氷、食べてみたいと思っていたずんだのアイスを手に取りレジへ向かう。
「お願いします」
店員さんにアイスを3つ受け渡す。
「はい、ありがとう・・・あれ?夏目さん」
急に名前を呼ばれたことにびっくりして顔を上げると、そこにいたのはコンビニの制服を着こなす柊くん。
「え。ここでバイトしてるの?」
「うん、そうだよ!」
店内の涼しさには不釣り合いな太陽の温かさを含んだ笑顔を向ける彼。
「あ、あの。夏休み前はごめんね」
こんなところで謝るつもりはなかった。自然と口から溢れていた。彼に会ったら謝ると決めていたから。
「なんのこと?僕、謝られるようなことされたっけ」
本当にわからないらしく、首を傾けたまま眉を顰めている。てっきり彼もそのことを考えているのではないかと思っていたが、私の思い違いだった。
「ううん。なんだもないや」
「それよりさ、この後時間空いてたりする?」
「一応空いてるけど・・・」
彼の瞳に輝きが増していくのがわかる。何がそんなに嬉しいのだろうか?
「じゃあさ、僕もうバイト終わるからその後少しデートしない?」
「あー、いいよ?」
デート...?大したことではないと思い適当に返事をしてしまった数秒前の自分を殴ってやりたい。
だって、今更こんなに嬉しそうに私を見つめてくる彼に断りを入れることなんて私にはできないから。
「じゃ、五分後に店の前に集合で!あー、お会計は365円になります」
財布から400円を取り出し、彼の手に渡す。じっとりと汗ばんでいる彼の大きな掌。もしかして、思わぬ私という客の登場に緊張でもしているのだろうか。
それにしても、今のは話の流れ的に『僕が払っておくよ』と言ってくれてもいいところではあるが、そういうところはきっちりしているのだな。
それが、数日彼と過ごして気付いた細やかな彼のいいところなのではあるが。
本当にされたらされたで、ちゃんと仕事しろ!と私なら言うと思うが...矛盾極まりない。
彼の手からお釣りの35円を受け取り、そのまま隣に置いてあった募金箱へとお金を落としていく。何も募金がしたかったわけではない。財布にお金をしまうのが、めんどくさかったからたまたま使わせてもらっただけのこと。
この35円が世界中の誰かの役に立てばいいなと、心の片隅でこっそりと思っているのは誰にも内緒。
小さな金額でも集まれば、大きなものとなる。確か、そんなことわざもあったような...
ビニール袋に入れられたアイスを片手でぶら下げて持ちながら、再び境界線へと赴く。まだ扉は開放されていない。
この境界線を超えてしまえば、そこは別世界。自動ドアに近づきすぎたことで、勝手に開いていく扉。一瞬にして夏のモワッとした空気が私の体を包む。
出たくないと頭が正常に判断するが、出ないことには家にすら帰れないので、諦めてコンビニから足を外に出す。閉まってしまう自動ドア。
夏特有なのか、道路がゆらゆらとぼやけて見えるような気がする。
「お待たせ。あれどうしたの?遠く見つめて」
いつの間にか私の隣にきている彼。半袖短パンとバイトに向かうのにぴったりの軽装。軽装同士の高校生が二人並ぶ。服装からだと小学生に見られてもおかしくはない。
彼に出会うと知っていたら、もう少しマシな服装をしてきたなと少しだけ後悔をする。
「うん。なんか夏って道路が歪んで見える気がして、どうしてなんだろうって」
「あぁ、それは『陽炎』だね。聞いたことはあるよね?」
「聞いたことはあるけど、どんなことなのかはわからない」
「アスファルトで熱せられた空気が、風が弱い場合に冷たい空気と混じり合って上昇する時の温度差によって、そこを通る光が様々な向きに屈折することでゆらゆらと揺らいで見えるんだよ」
「へぇー、そうなんだ」
「専門的な言葉で言うと、『シュリーレン現象』って言うんだ」
途端に難しい言葉が出てきて頭がこんがらがりそうになる。その前の説明ですら、半分くらいしか理解できていないのに。
「よくそんなこと知ってるね。普通はそんなこと知らないよ?」
自分が理解できなかったことを誤魔化すために、『普通の人は知らない』と逃げ道を自ら作る。
「あ、ごめん。携帯で調べてた」
小さく舌を出して、私を小馬鹿にしてくる。まるで、騙される方が悪いのだと言わんばかりの表情。
彼の手元には太陽の光を反射してキラッと光る携帯の画面。
「うわっ。めっちゃ知ったかぶりして話してたのに、内容見たまんまだったのね」
「知ったかぶりってひどいな。気が付かなかった夏目さんが悪い!」
「それ言われたら、私何も言い返せないじゃん!」
『ごめん!』と謝らながら笑う彼の顔が、日差しに照らされて輝いて見える。
彼は太陽さえも味方につけてしまうのだろう。太陽と月。私たちの関係性は、友達だけれど言葉で表すとそれが1番しっくりくる気がする。
太陽が隠れると月が現れる。必ず、どちらかしかこの大きな空には存在しない。片方だけ。そんな当たり前のことは小学生でも知っている。これが、まさか本当になるとは思ってもいなかったんだ。
何か目的があって歩いているわけではない、二人の男女の背中を夏の日差しが照らし続ける。せっかく引いた汗も再び、ジワジワと背中を濡らす。
帰ったらすぐにでもシャワーを浴びようと思うが、いつになったら帰れるのかわからないため、不快感だけが募っていく。
互いに無言になってから既に五分は経過しただろう。私の体感からしたら、五分ではなく二時間くらいにも感じられた。頭をよぎるのは、『帰りたい』の四文字。
帰っても特にすることはないので、暇な時間を過ごすだけだが。
「あのさ」
「どうしたの?」
やっと話しかけてくれたことに妙に心が昂る。
「アイス溶けてない?」
「あー!!!」
袋の中を覗くと、見た目はなんの変哲もない普通のアイス。だが、手で触れてみると、どれも原型を留めておらず液状のものばかり。せっかく買ったアイスがこれでは食べることすらできない。
喪失感が胸に残り続けていく。無惨に夏の日差しに完敗してしまったアイスたちを見下ろしながら、そっとため息をつく。
「ぼ、僕のせいだよね。ほんと、ごめん」
「それは違うよ。完全に私のせいだから、気にしないで。それに家帰ってから凍らせたら食べることはできるでしょ!」
「すごいな。僕にはそんな考えなかったや。そういうところ斬新でいいね。僕だったら、ここで袋開けて飲んでたよ」
「それもそれで、なかなか斬新だよ。アイスを飲むって」
可笑しくなって笑い合う私たち。さっきまでの沈黙が嘘だったかのように、ぽんぽんとその後も会話が続いていく。気付けば私も彼とごく普通に言葉のキャッチボールができている。
余命宣告されてから人と関わることを避けてきた私が、前みたいに話すことができているなんて。一週間前の引きこもりをしていた私には考えられない姿だろう。
「あのさ、明日花火大会なんだけど、行く人決まってる?」
「明日だっけ?忘れてた。いないよ。柊くんが私を誘ってくれたんでしょ?」
「覚えてくれてたんだ。忘れられたかと思ってた」
「覚えてたけど、連絡先知らないからどうすればいいのかわからなかったの」
「え、連絡先交換とかしてくれたりする?」
「私でいいなら、全然いいけど」
「嬉しいな。ありがとう!」
彼から差し出されたQRコードを読み取る。『冬夜』と記された雪景色がアイコンのアカウントが、私の携帯画面に表示される。名前の通り彼は冬が好きな季節なのだろうか。
アイコンまで冬なので、つい勘繰ってしまう。
「よし、これで夏目さんといつでも連絡取れるね!」
「そうだけど、変な連絡はしてこないでよ!」
「普通に話したいことだったらいいの?」
「う・・・仕方ない。いいよ」
「じゃあ、明日の集合時間と場所はメッセージで送るから、また明日」
「うん。それじゃ・・・」
こんなにも暑い日なのに、走って角を曲がっていく彼の後ろ姿を私は見えなくなるまで眺めていた。思えば、私はこの時から彼に心を奪われ始めていたのかもしれない。
私の心を...
家に着いた私は真っ先にアイスを冷凍庫の中へと放り込む。もはや、アイスとは呼べなくなった液状のものが、ぷちゃぷちゃと音を立てながらマイナスの世界へと落ちてゆく。
数時間後には歪な形をしたアイスになるのは目に見えているが、味は変わらないので私的にはオッケー。
"ピコン"
無機質な電子音が私の心を刺激するように鳴る。
『無事に帰れたかな?明日、現地に18時に集合でどう?』
急いで返信するのは、待っていました感があって嫌なので、少し時間を空けてから返信をしようと思い、未読のまま彼のメッセージを眺める。
「明日は、二人きりか・・・」
「何が明日は二人きりなの?」
どこからかわからない声が確かに私の耳に届いてくる。恐る恐る後ろを振り返ると、そこには満面の笑みで私を見つめてくる母親の姿。
「お、お母さん!?いつからいたの」
「んー、火花が冷凍庫にアイスを入れたところからかな」
「なんで声かけてくれなかったのさ!」
「だって、火花嬉しそうな顔してたからね。最近で一番いい顔しているわよ?何かいいことでもあったんでしょ」
「そ、それは・・・」
自分では気が付かなかったが、私の顔にも表れているようだ。明日が少し楽しみだっていう感情が。
「それで、明日は花火大会だけど行く人が決まったってことかな?ま、その反応だと日向くんと千紗ちゃんではなさそうね。詳しいことは聞かないでおくから、とびっきり可愛い格好で行こうね」
「ま、まだ何も言ってないじゃん!」
逃げるように笑いながら、洗面所へと消えてしまう母。女の勘が鋭いとはこういうことを言うのだろう。
少しだけ厄介だが、結局明日にはバレていたことなので、どちらにしろ変わらないが...
コップを棚から取り出し、キッチンの水栓レバーを上にあげる。勢いよく溢れ出してくる透明な液体。コップをそっと近づけ、透明な液体を注いでいくと一瞬で並々になってしまった。
コップに入っている透明な液体を目線の高さまで持っていく。目の前に広がる透明な世界越しに見える、リビングの風景。
揺らめきながらも確かに存在する場所。水の中の世界は、幻想的なのだろうか。地上の世界も綺麗だけれど、きっと海の中の世界は私たちの想像を絶するほどの美しさを持っているのではないのだろうか。
何%かは忘れてしまったが、海は地球上のほとんどを占めているにもかかわらず、人類が確認できているのはそのうちのたった五%だけと前にテレビで話していた。
五%と聞くと大したことないかもしれない。でも、よく言えばまだまだ海には謎が眠っているんだ。そう考えると、やはり世界は広いなと感じてしまう。
私の中で大きな悩みとなっている『余命』ですら、世界全体を的にして考えてみるとちっぽけにも感じられる。全然気持ち的には整理がついているわけではないが、そう考えると少しは気持ちが楽になる気がする。
世界中には私よりももっと劣悪な環境で育ち、常に死と隣り合わせの子どもたちはごまんといるだろう。いつ死ぬかわからない恐怖。
私のように段々と死が見えてくるのももちろん恐怖ではあるが、毎日死に怯えて暮らす日々はもっと過酷に違いない。常に死が目の前に迫っているなんて、生きた心地がしないはず。
私も残り一年の命。こうして今は不安がないと言ったら嘘になるが、心臓のこと以外での恐怖はない。交通事故とかの可能性もあるけれどこれまで生きてきて、朝事故に怯えた記憶だって見つからない。
私たちの住む日本では、戦争がある国に比べたら全然『死』というものに対して、身近ではないのかもしれない。当然毎日何人かは亡くなっているだろうけれど、必ずしもそれが身近な人とは限らない。
そのくらいの認識なんだ。私が住んでいるこの国は。安心ができるほどに。
その反面、自殺者は世界で一番多いらしい。自ら望んで『死』を選ぶ人が最も多いということ。それが、何を意味しているのか私にはよくわからない。ただ、これだけは言える。
私の他にも死にたくなるくらい苦しんでいる人は、日本中にたくさんいるのだ。
みんなは何を希望の光にして日々を過ごしているのだろうか。私にも残り一年の間にしたいことや伝えたいことが出てくるのか。
未来のない私もこれから先のことを考えてもいいのか、私にはわからないんだ。
誰か...私に生きる希望を与えてください。
キッチンから落ちる水滴の音が、誰もいないリビングに虚しく響く。小さな音だったのに、私の耳にはやけに大きな音に聞こえた気がした。
夕飯と入浴を今日は手短に済ませ、明日に備えて早く寝ようと思い、普段よりも一時間半早くベッドに入り込む。
ふかふかに私の体を包み、沈んでいくベッドの心地よさについうっとりしてしまう。でも、何かを忘れている気がしてやまない。
大事な何かを私は忘れてしまっている...あ、返信だ。
思い出した頃には、彼から連絡が来てから既に五時間以上も時間が経過していた。さすがに、ここまで時間を空けておくつもりはなかったので、申し訳なくなってしまう。
彼とのトーク画面を開き、彼から送られてきたメッセージを再び読み返し返事を考える。
画面をフリック入力でスクロールして急いで彼への返信を綴っていく。爪が画面に当たり、部屋には"カッカッカッ"と音だけが暗い部屋の中で鳴り続ける。
出来上がった文章を急いでいたため、確認をしないまま送信ボタンをタップする。
『ごめん。気付かなくて、変人遅くなった。明日6時に集合体ね!』
送ってから文章を見直したら、びっくりすることに誤字ばかり。いくら急いでいたからと言ってもこれは酷い内容。
書き直そうと思い、送信取り消しボタンに指を伸ばすが、それよりも先にメッセージに『既読』の文字がついてしまう。
既読がついてしまうということは、彼にこのメッセージを読まれてしまっているのを意味する。今更メッセージを取り消しても意味がないと判断し、携帯からそっと指を離していく。
彼からなんて返ってくるのかと同時に、誤字ってしまったことが恥ずかしくて居た堪れない気持ちに陥る。
"ピコンッ"
電気の消えた暗い部屋に、通知によって明るく点灯した携帯の画面。『柊冬夜』と画面の中央に表示されている彼の名前。
色々な感情を胸の内に秘めながら、ゆっくり彼からのメッセージを開いていく。
『誤字だらけだね(笑)てっきり夏目さんの身に何かあったんじゃないかって心配したよ。でも、連絡来て安心した。それと、僕は変人ではないからね(笑)それじゃ、また明日ね。楽しみにしています!』
「心配してくれてたんだ・・・悪いことしたな」
彼から届いたメッセージは心が温かくなるような優しい文章だった。少し誤字の部分をイジられてはいるが、それはそれで良いこと?だった気もするので結果的には丸だ。
「楽しみか・・・」
余命宣告をされて以来、楽しいと思えることが減った私の生活。それなのに、どうしてか今は明日が楽しみな気持ちを抑えることができないでいる。
あれほど心が沈んでいたはずだったのに、気がつけば今までとはいかないものの少しずつ前を向き始めている気がする。それもこれも全て彼のおかげなのだろうか。
もし、そうなのだとしたらこれから私は彼と関わっていくことで、変わっていくことができるのかもしれない。ただそれは、彼に苦しみを与えることにもなってしまうのだけれど。
深い関係になって彼を傷つけてしまうことだけは避けたい。友達の線は超えない適度な関係。これが一番最適なはず。
好きにはなってはいけないんだ私は。揺れゆく気持ちに気づいているにもかかわらず、私はその気持ちに気づかないようにそっと蓋をした。
光る携帯の彼とのトーク画面に『楽しみ!』と笑っている猫のスタンプを送りつけて、私と携帯は電源を切るかの如く深い暗闇へと落ちていく。
すっかり溶けたアイスの存在すら、私の頭の片隅には存在はせず、頭の中をを巡り巡るのは明日のことだけだった。
夏休みが始まって、すでに一週間が経過していた。時間だけが過ぎていくばかりで、一切夏休みの課題にも手をつけていない。なんの意味もない無意味な日々を過ごしている。
一週間前のあの日。忘れたくても忘れられない日になった。教室に戻った後、なぜかクラスメイトたちの奇妙な視線が私に刺さり続けた。
どの視線も冷たいナイフのように私へと鋭く突き刺さる。3つほど、温かい視線もあったが。
警戒しながら自分の席に座ると、さらにその視線が強まっていくのが感じられるほど、私は睨まれていた。
"もしかして何かしたのかな"と不安になっていたところで、隣の彼がとんでもないことを口にしたのだ。
『ごめんね。僕がお姫様抱っこなんてしたから・・・夏目さんが心配で他に思いつかなくて、咄嗟にしちゃった』
私はその言葉を聞いた途端に、納得してしまった。この視線は私に対する嫉妬なのだと。
心臓のことがバレたのではとヒヤッとしたが、どうやら違ったようで一安心...なんてできるはずがなかった。
放課後、彼を呼び出し怒ったのが夏休み前最後の私たちの会話だった。
彼は私にひたすら謝っていたが、今となって思えば私はなんて酷いやつなんだと思ってしまう。彼は必死になって私を保健室に連れて行ってくれたのに、怒鳴りつけるなんて。
今度あったら謝ろうと思って、夏休みに突入したのはいいものの、肝心の連絡先を知らない。
連絡先を知らないのでは、どう頑張ったところで偶然会わない限り彼と会うことはないだろう。
それにしても、暑い。
エアコンをつけたいのだが、生憎今はフィルターを掃除中で明日までは使えないらしい。代わりに部屋に涼しい空気を循環させるために窓を全開にしているが、入ってくるのはむさ苦しい風ばかり。
家の中にいるのに、背中から汗が流れてくるのがわかる。これでは、外にいても家の中にいても同じなのではとさえ思ってしまう。
「あぁ〜、何もしたくはないけど・・・アイスは食べたいな」
リビングにある冷凍庫の中を物色するが、出てくるのは冷凍食品の数々。どこを探しても出てくるのは弁当のおかずになりそうなものばかり。
多少のめんどくささはあるけれど、欲に負けてしまいアイスを買いに行くことを決める。どうせなら、当分の間は買いに行かなくて済むように多めに買っておこう。
上は白い半袖のシャツ、下はショートパンツに着替える。軽装なのがまた動きやすくて風通りが気持ちいい。
サンダルに足を通し、念の為鏡で自分の姿を確認する。
「よーし、おっけー」
これでも一応女の子なので、身だしなみだけはしっかりしておきたい。
玄関を開けると、また家の中とは違う別の暑さが私の全身を照らす。ジワジワと眩しいくらいに輝きを放っている太陽。
今朝のニュースでアナウンサーが話していた今日の気温は、確か35度。ここ最近で、今日は一段と暑いらしい。
家を出てものの数分なのにもかかわらず、額から溢れ出てくる汗の量が尋常じゃない。
家を出てくる前に確認したはずの前髪が、ベッタリと汗でおでこに張り付いてるのがわかる。
これでは前髪を整えた意味がない。
この状態になってしまっては、もう仕方がないので諦めることにしてひたすらコンビニを目指す。
コンビニに行った後は、家に帰ってまたダラダラするだけなのだから。
十分ほど歩いたところで、コンビニが見えてくる。夏休みということもあり、店の前には小学生の集団がアイスを片手に楽しそうに何やら話をしている。
何人かのアイスが溶けかかって、今にも手に垂れそうなのに話に夢中で気付く様子がない。
伝えてあげようか迷った末に、通り側に『アイス溶けるよ〜』とだけ囁くように伝える。
「ありがとう!お姉ちゃん」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥底に沈み込んでくるような温かな感覚が残る。
最近は忘れていたこの感覚が懐かしい。
ドアの前に立つとセンサーが反応して開く自動ドア。その瞬間、コンビニ内の冷えた空気が一気に押し寄せくる。
夏のコンビニはマジで天国そのもの。だって、扉が開いただけなのにさっきまでの汗が嘘かのように引いていく。
二つの境界線の上に佇む私。躊躇うことなく私は天国へと足を伸ばした。
全身が快適な温度に包まれる。ずっとこの場所に留まっていたいが、それは迷惑なのである程度涼んだら出ていこう。
一直線にアイスコーナーへと向かい、アイスがたくさん詰まっているBOXを開ける。
店内の温度よりもさらに冷えた世界がそこには広がっていた。ずっとそこに入れていたら、凍ってしまいそうなくらいこの中は寒い。
ふいに、私の心臓も冷凍保存されてしまえばいいのにと思ってしまう。そしたら、先の未来でまた私は火花として生きることができるかもしれないから。
色とりどりのアイスたちが眠っている。私の手の温度で眠っているアイスたちをそっと起こしてあげようと優しく手で掴む。
冷たい...外が夏だとは考えられないくらい。
無難なバニラアイスと期間限定のかき氷、食べてみたいと思っていたずんだのアイスを手に取りレジへ向かう。
「お願いします」
店員さんにアイスを3つ受け渡す。
「はい、ありがとう・・・あれ?夏目さん」
急に名前を呼ばれたことにびっくりして顔を上げると、そこにいたのはコンビニの制服を着こなす柊くん。
「え。ここでバイトしてるの?」
「うん、そうだよ!」
店内の涼しさには不釣り合いな太陽の温かさを含んだ笑顔を向ける彼。
「あ、あの。夏休み前はごめんね」
こんなところで謝るつもりはなかった。自然と口から溢れていた。彼に会ったら謝ると決めていたから。
「なんのこと?僕、謝られるようなことされたっけ」
本当にわからないらしく、首を傾けたまま眉を顰めている。てっきり彼もそのことを考えているのではないかと思っていたが、私の思い違いだった。
「ううん。なんだもないや」
「それよりさ、この後時間空いてたりする?」
「一応空いてるけど・・・」
彼の瞳に輝きが増していくのがわかる。何がそんなに嬉しいのだろうか?
「じゃあさ、僕もうバイト終わるからその後少しデートしない?」
「あー、いいよ?」
デート...?大したことではないと思い適当に返事をしてしまった数秒前の自分を殴ってやりたい。
だって、今更こんなに嬉しそうに私を見つめてくる彼に断りを入れることなんて私にはできないから。
「じゃ、五分後に店の前に集合で!あー、お会計は365円になります」
財布から400円を取り出し、彼の手に渡す。じっとりと汗ばんでいる彼の大きな掌。もしかして、思わぬ私という客の登場に緊張でもしているのだろうか。
それにしても、今のは話の流れ的に『僕が払っておくよ』と言ってくれてもいいところではあるが、そういうところはきっちりしているのだな。
それが、数日彼と過ごして気付いた細やかな彼のいいところなのではあるが。
本当にされたらされたで、ちゃんと仕事しろ!と私なら言うと思うが...矛盾極まりない。
彼の手からお釣りの35円を受け取り、そのまま隣に置いてあった募金箱へとお金を落としていく。何も募金がしたかったわけではない。財布にお金をしまうのが、めんどくさかったからたまたま使わせてもらっただけのこと。
この35円が世界中の誰かの役に立てばいいなと、心の片隅でこっそりと思っているのは誰にも内緒。
小さな金額でも集まれば、大きなものとなる。確か、そんなことわざもあったような...
ビニール袋に入れられたアイスを片手でぶら下げて持ちながら、再び境界線へと赴く。まだ扉は開放されていない。
この境界線を超えてしまえば、そこは別世界。自動ドアに近づきすぎたことで、勝手に開いていく扉。一瞬にして夏のモワッとした空気が私の体を包む。
出たくないと頭が正常に判断するが、出ないことには家にすら帰れないので、諦めてコンビニから足を外に出す。閉まってしまう自動ドア。
夏特有なのか、道路がゆらゆらとぼやけて見えるような気がする。
「お待たせ。あれどうしたの?遠く見つめて」
いつの間にか私の隣にきている彼。半袖短パンとバイトに向かうのにぴったりの軽装。軽装同士の高校生が二人並ぶ。服装からだと小学生に見られてもおかしくはない。
彼に出会うと知っていたら、もう少しマシな服装をしてきたなと少しだけ後悔をする。
「うん。なんか夏って道路が歪んで見える気がして、どうしてなんだろうって」
「あぁ、それは『陽炎』だね。聞いたことはあるよね?」
「聞いたことはあるけど、どんなことなのかはわからない」
「アスファルトで熱せられた空気が、風が弱い場合に冷たい空気と混じり合って上昇する時の温度差によって、そこを通る光が様々な向きに屈折することでゆらゆらと揺らいで見えるんだよ」
「へぇー、そうなんだ」
「専門的な言葉で言うと、『シュリーレン現象』って言うんだ」
途端に難しい言葉が出てきて頭がこんがらがりそうになる。その前の説明ですら、半分くらいしか理解できていないのに。
「よくそんなこと知ってるね。普通はそんなこと知らないよ?」
自分が理解できなかったことを誤魔化すために、『普通の人は知らない』と逃げ道を自ら作る。
「あ、ごめん。携帯で調べてた」
小さく舌を出して、私を小馬鹿にしてくる。まるで、騙される方が悪いのだと言わんばかりの表情。
彼の手元には太陽の光を反射してキラッと光る携帯の画面。
「うわっ。めっちゃ知ったかぶりして話してたのに、内容見たまんまだったのね」
「知ったかぶりってひどいな。気が付かなかった夏目さんが悪い!」
「それ言われたら、私何も言い返せないじゃん!」
『ごめん!』と謝らながら笑う彼の顔が、日差しに照らされて輝いて見える。
彼は太陽さえも味方につけてしまうのだろう。太陽と月。私たちの関係性は、友達だけれど言葉で表すとそれが1番しっくりくる気がする。
太陽が隠れると月が現れる。必ず、どちらかしかこの大きな空には存在しない。片方だけ。そんな当たり前のことは小学生でも知っている。これが、まさか本当になるとは思ってもいなかったんだ。
何か目的があって歩いているわけではない、二人の男女の背中を夏の日差しが照らし続ける。せっかく引いた汗も再び、ジワジワと背中を濡らす。
帰ったらすぐにでもシャワーを浴びようと思うが、いつになったら帰れるのかわからないため、不快感だけが募っていく。
互いに無言になってから既に五分は経過しただろう。私の体感からしたら、五分ではなく二時間くらいにも感じられた。頭をよぎるのは、『帰りたい』の四文字。
帰っても特にすることはないので、暇な時間を過ごすだけだが。
「あのさ」
「どうしたの?」
やっと話しかけてくれたことに妙に心が昂る。
「アイス溶けてない?」
「あー!!!」
袋の中を覗くと、見た目はなんの変哲もない普通のアイス。だが、手で触れてみると、どれも原型を留めておらず液状のものばかり。せっかく買ったアイスがこれでは食べることすらできない。
喪失感が胸に残り続けていく。無惨に夏の日差しに完敗してしまったアイスたちを見下ろしながら、そっとため息をつく。
「ぼ、僕のせいだよね。ほんと、ごめん」
「それは違うよ。完全に私のせいだから、気にしないで。それに家帰ってから凍らせたら食べることはできるでしょ!」
「すごいな。僕にはそんな考えなかったや。そういうところ斬新でいいね。僕だったら、ここで袋開けて飲んでたよ」
「それもそれで、なかなか斬新だよ。アイスを飲むって」
可笑しくなって笑い合う私たち。さっきまでの沈黙が嘘だったかのように、ぽんぽんとその後も会話が続いていく。気付けば私も彼とごく普通に言葉のキャッチボールができている。
余命宣告されてから人と関わることを避けてきた私が、前みたいに話すことができているなんて。一週間前の引きこもりをしていた私には考えられない姿だろう。
「あのさ、明日花火大会なんだけど、行く人決まってる?」
「明日だっけ?忘れてた。いないよ。柊くんが私を誘ってくれたんでしょ?」
「覚えてくれてたんだ。忘れられたかと思ってた」
「覚えてたけど、連絡先知らないからどうすればいいのかわからなかったの」
「え、連絡先交換とかしてくれたりする?」
「私でいいなら、全然いいけど」
「嬉しいな。ありがとう!」
彼から差し出されたQRコードを読み取る。『冬夜』と記された雪景色がアイコンのアカウントが、私の携帯画面に表示される。名前の通り彼は冬が好きな季節なのだろうか。
アイコンまで冬なので、つい勘繰ってしまう。
「よし、これで夏目さんといつでも連絡取れるね!」
「そうだけど、変な連絡はしてこないでよ!」
「普通に話したいことだったらいいの?」
「う・・・仕方ない。いいよ」
「じゃあ、明日の集合時間と場所はメッセージで送るから、また明日」
「うん。それじゃ・・・」
こんなにも暑い日なのに、走って角を曲がっていく彼の後ろ姿を私は見えなくなるまで眺めていた。思えば、私はこの時から彼に心を奪われ始めていたのかもしれない。
私の心を...
家に着いた私は真っ先にアイスを冷凍庫の中へと放り込む。もはや、アイスとは呼べなくなった液状のものが、ぷちゃぷちゃと音を立てながらマイナスの世界へと落ちてゆく。
数時間後には歪な形をしたアイスになるのは目に見えているが、味は変わらないので私的にはオッケー。
"ピコン"
無機質な電子音が私の心を刺激するように鳴る。
『無事に帰れたかな?明日、現地に18時に集合でどう?』
急いで返信するのは、待っていました感があって嫌なので、少し時間を空けてから返信をしようと思い、未読のまま彼のメッセージを眺める。
「明日は、二人きりか・・・」
「何が明日は二人きりなの?」
どこからかわからない声が確かに私の耳に届いてくる。恐る恐る後ろを振り返ると、そこには満面の笑みで私を見つめてくる母親の姿。
「お、お母さん!?いつからいたの」
「んー、火花が冷凍庫にアイスを入れたところからかな」
「なんで声かけてくれなかったのさ!」
「だって、火花嬉しそうな顔してたからね。最近で一番いい顔しているわよ?何かいいことでもあったんでしょ」
「そ、それは・・・」
自分では気が付かなかったが、私の顔にも表れているようだ。明日が少し楽しみだっていう感情が。
「それで、明日は花火大会だけど行く人が決まったってことかな?ま、その反応だと日向くんと千紗ちゃんではなさそうね。詳しいことは聞かないでおくから、とびっきり可愛い格好で行こうね」
「ま、まだ何も言ってないじゃん!」
逃げるように笑いながら、洗面所へと消えてしまう母。女の勘が鋭いとはこういうことを言うのだろう。
少しだけ厄介だが、結局明日にはバレていたことなので、どちらにしろ変わらないが...
コップを棚から取り出し、キッチンの水栓レバーを上にあげる。勢いよく溢れ出してくる透明な液体。コップをそっと近づけ、透明な液体を注いでいくと一瞬で並々になってしまった。
コップに入っている透明な液体を目線の高さまで持っていく。目の前に広がる透明な世界越しに見える、リビングの風景。
揺らめきながらも確かに存在する場所。水の中の世界は、幻想的なのだろうか。地上の世界も綺麗だけれど、きっと海の中の世界は私たちの想像を絶するほどの美しさを持っているのではないのだろうか。
何%かは忘れてしまったが、海は地球上のほとんどを占めているにもかかわらず、人類が確認できているのはそのうちのたった五%だけと前にテレビで話していた。
五%と聞くと大したことないかもしれない。でも、よく言えばまだまだ海には謎が眠っているんだ。そう考えると、やはり世界は広いなと感じてしまう。
私の中で大きな悩みとなっている『余命』ですら、世界全体を的にして考えてみるとちっぽけにも感じられる。全然気持ち的には整理がついているわけではないが、そう考えると少しは気持ちが楽になる気がする。
世界中には私よりももっと劣悪な環境で育ち、常に死と隣り合わせの子どもたちはごまんといるだろう。いつ死ぬかわからない恐怖。
私のように段々と死が見えてくるのももちろん恐怖ではあるが、毎日死に怯えて暮らす日々はもっと過酷に違いない。常に死が目の前に迫っているなんて、生きた心地がしないはず。
私も残り一年の命。こうして今は不安がないと言ったら嘘になるが、心臓のこと以外での恐怖はない。交通事故とかの可能性もあるけれどこれまで生きてきて、朝事故に怯えた記憶だって見つからない。
私たちの住む日本では、戦争がある国に比べたら全然『死』というものに対して、身近ではないのかもしれない。当然毎日何人かは亡くなっているだろうけれど、必ずしもそれが身近な人とは限らない。
そのくらいの認識なんだ。私が住んでいるこの国は。安心ができるほどに。
その反面、自殺者は世界で一番多いらしい。自ら望んで『死』を選ぶ人が最も多いということ。それが、何を意味しているのか私にはよくわからない。ただ、これだけは言える。
私の他にも死にたくなるくらい苦しんでいる人は、日本中にたくさんいるのだ。
みんなは何を希望の光にして日々を過ごしているのだろうか。私にも残り一年の間にしたいことや伝えたいことが出てくるのか。
未来のない私もこれから先のことを考えてもいいのか、私にはわからないんだ。
誰か...私に生きる希望を与えてください。
キッチンから落ちる水滴の音が、誰もいないリビングに虚しく響く。小さな音だったのに、私の耳にはやけに大きな音に聞こえた気がした。
夕飯と入浴を今日は手短に済ませ、明日に備えて早く寝ようと思い、普段よりも一時間半早くベッドに入り込む。
ふかふかに私の体を包み、沈んでいくベッドの心地よさについうっとりしてしまう。でも、何かを忘れている気がしてやまない。
大事な何かを私は忘れてしまっている...あ、返信だ。
思い出した頃には、彼から連絡が来てから既に五時間以上も時間が経過していた。さすがに、ここまで時間を空けておくつもりはなかったので、申し訳なくなってしまう。
彼とのトーク画面を開き、彼から送られてきたメッセージを再び読み返し返事を考える。
画面をフリック入力でスクロールして急いで彼への返信を綴っていく。爪が画面に当たり、部屋には"カッカッカッ"と音だけが暗い部屋の中で鳴り続ける。
出来上がった文章を急いでいたため、確認をしないまま送信ボタンをタップする。
『ごめん。気付かなくて、変人遅くなった。明日6時に集合体ね!』
送ってから文章を見直したら、びっくりすることに誤字ばかり。いくら急いでいたからと言ってもこれは酷い内容。
書き直そうと思い、送信取り消しボタンに指を伸ばすが、それよりも先にメッセージに『既読』の文字がついてしまう。
既読がついてしまうということは、彼にこのメッセージを読まれてしまっているのを意味する。今更メッセージを取り消しても意味がないと判断し、携帯からそっと指を離していく。
彼からなんて返ってくるのかと同時に、誤字ってしまったことが恥ずかしくて居た堪れない気持ちに陥る。
"ピコンッ"
電気の消えた暗い部屋に、通知によって明るく点灯した携帯の画面。『柊冬夜』と画面の中央に表示されている彼の名前。
色々な感情を胸の内に秘めながら、ゆっくり彼からのメッセージを開いていく。
『誤字だらけだね(笑)てっきり夏目さんの身に何かあったんじゃないかって心配したよ。でも、連絡来て安心した。それと、僕は変人ではないからね(笑)それじゃ、また明日ね。楽しみにしています!』
「心配してくれてたんだ・・・悪いことしたな」
彼から届いたメッセージは心が温かくなるような優しい文章だった。少し誤字の部分をイジられてはいるが、それはそれで良いこと?だった気もするので結果的には丸だ。
「楽しみか・・・」
余命宣告をされて以来、楽しいと思えることが減った私の生活。それなのに、どうしてか今は明日が楽しみな気持ちを抑えることができないでいる。
あれほど心が沈んでいたはずだったのに、気がつけば今までとはいかないものの少しずつ前を向き始めている気がする。それもこれも全て彼のおかげなのだろうか。
もし、そうなのだとしたらこれから私は彼と関わっていくことで、変わっていくことができるのかもしれない。ただそれは、彼に苦しみを与えることにもなってしまうのだけれど。
深い関係になって彼を傷つけてしまうことだけは避けたい。友達の線は超えない適度な関係。これが一番最適なはず。
好きにはなってはいけないんだ私は。揺れゆく気持ちに気づいているにもかかわらず、私はその気持ちに気づかないようにそっと蓋をした。
光る携帯の彼とのトーク画面に『楽しみ!』と笑っている猫のスタンプを送りつけて、私と携帯は電源を切るかの如く深い暗闇へと落ちていく。
すっかり溶けたアイスの存在すら、私の頭の片隅には存在はせず、頭の中をを巡り巡るのは明日のことだけだった。