この世界に最後の花火を
夏の早朝の輝き
鳥たちの騒がしい囀りの音で目が覚める。普段なら絶対にこんな些細な音で目が覚めることなんてないはずなのに、どうしてか今日に限って早く起きてしまう。
ベッドの隅に置かれた目覚まし時計で時刻を確認する。4時25分。最近は夏休みだったこともあり、起床時間は学校のある日に比べて一時間ほど遅くはなった。
大体最近起きる時刻は、7時半頃。三時間の早起きということになる。
二度寝をしようともう一度目を閉じるが、既に意識が覚醒してしまって全く眠れそうにない。それに加えて、なぜだか睡眠時間が短いにもかかわらず、心なしかスッキリしている気もする。
こんなにも早く目が覚めてしまった理由は一つしか考えられない。きっと日向と千紗に話したら、『小学生かよ!』と馬鹿にされることだけは目に見えている。
そのくらい私は今日の花火大会を楽しみにしているのだろう。自分の認識ではそこまで強くは感じられないが、本能的には待ち遠しいに違いない。
そうでなければ、小学生の修学旅行前みたくこんなに早起きすることはないのだから。
特に何もすることがなく、ベッドの上で寝転がりながらネットサーフィンをする。様々なsnsを行ったり来たりと。
動画を見ては、検索にはしり、また動画へ戻る。有意義な時間だと感じるが、よく考えるとただの暇つぶしをして時間を無駄にしているような気もしなくもない。
再度時間を確認すると、時刻は5時15分。起きてから約50分くらいは経過したようだ。薄暗い部屋にカーテンの隙間から差し込んでくる朝日に目が少しチカチカする。
起きてからしばらく経つが、ようやくカーテンへと手を伸ばし、ゆっくりと両手でカーテンを開いていく。瞬時に私の暗い部屋に差し込んでくる大量の光。
「わぁ〜!」
窓越しに映る景色に思わず声を漏らしてしまう。ありふれた日常の風景に変わりはないが、何かが違って見える。時間が変わるだけで、自分が住んでいる場所には思えないほどに。
オレンジ色の夕焼けに近い光が、まだ薄暗く闇に包まれている家々を徐々に照らし始めている。まるで、空から神様が降りてくるかのような神秘的な光景。
誇張しすぎかとも思うが、私の目からすると本当にそのくらい幻想的に映って見えるんだ。家に閉じこもってばかりいたら、私はこんな綺麗な光景さえも見逃していた。
薄い一枚の隔たりをなくしてこの景色を目に収めておきたい。ロックを解除して、寝ている近所の人が起きないようにゆっくりと窓を開ける。
"キィィィ"
と音を立てながら、窓を開ける。思わず息をするのを忘れてしまうくらい、私から言葉が失われる。
私の部屋に流れ込んできたのは、夏の風とは思えないほど涼しく爽やかな風。初めて経験するわけでもないのに、なぜか私は今この瞬間に感動している。
一度心をどこかに置き去りにしてしまったから、この感動があるのかもしれない。『死』が近づいたことによって、私は知らないうちにこの世界の綺麗な部分をさらに他人よりも美化している。
そう考えなければ、こんな些細なことでここまで驚くはずがないのだ。
何分くらい外を眺めていたのだろうか。気づけば住宅街からは闇が消え去り、辺り一面が光に飲まれているではないか。
新聞配達のバイク、おじいちゃんの犬の散歩、ジョギングをしている若い女性。皆がこの夏の朝を快適に過ごしているように見えてしまう。
私も外を眺めているだけで特に何もしていないが、遥かに先ほどのネットサーフィンをしている時間よりも、有意義で心が休まる時間となったのは言うまでもない。
胸の高揚感を抑えられないまま、クローゼットから半袖短パンのジャージを取り出し着替える。手には携帯とワイヤレスイヤホン。もちろん靴はランニングシューズで。
ランニングをするわけではない。夏の朝の澄んだ涼しい空気を肌で実感したかった。側から見たらジョギングをする格好にしか見えないが、生憎私は走ることができない。
こんな朝早く人通りも少ない時間に倒れてしまったら、それはもう確実に『死』が待ち受けているだろう。数分のうちに私の心臓は負荷に耐えられなくなって、いずれ止まる。
格好だけは一丁前だが、歩くことしかできないのがひどく悔しい。
玄関の扉を静かにまだ寝ている両親を起こさないように、そっと閉じていく。"ガチャ"という音が聞こえてくるまで指を離さないように。
私の両親は、私の余命が残り一年と先生に伝えられてから、私のすることに関してだいぶ寛容になった気がする。危険なことや体に負担がかからないこと以外であれば、基本的になんでもさせてくれる。
それが私には嬉しくもあるが、同時に寂しい感じもする。あと一年しか生きられないということに対する『自由』だと捉えてしまっているのかもしれない。
絶対に両親はそんなふうには思ってはいないだろうけれど。もしかしたらと、私はそんな卑屈なことを考えてしまう。
日中の真夏とは、まるで違うような世界線。私の体を通り抜けていく風や空気たちは夏特有の温かさを含んではいるが、どれも涼しいものばかり。本当に真夏なのかと疑ってしまうほど。
家の隙間から漏れ出して、私の視界を贅沢に彩る朝日。どれもが、私には新鮮に感じられる。
清々しい気持ちに包まれながら、目的もなしに足取りを進めていく。笹舟が川の水に流され、どんどんと下流へと流れていくようにひたすらどこかを目指して。
耳からは軽快な音楽が流れる。私のプレイリストは、ほとんどが最近の曲が収録されている。最近は空前の昔の曲ブームになっているが、私は流行りには乗らない。
そう言いつつも、私のプレイリストには誰もが知っているアニメーション映画の心地のいい音楽しか入っていないのだが。代表的な作品の音楽から少しマニアックな作品の音楽全てがこの携帯にメモリーされている。
散歩中、耳にするには優雅でピッタリすぎるので、みんなにも聞いてほしいと密かに思っているが、正直私だけの秘密にしたい気もしてやまない。
ちなみに今流れている曲は、世界的にも有名な温泉宿の映画の音楽。神様とか蛙とか豚など、その他諸々。滑らかで上品な音色が私の足取りと心を清らかにしていく。
音楽に詳しくない私でもこの曲は、何か独特なものを感じてしまう。その正体がなんなのかまでは私には当然わかるはずもないけれど...
歩いているうちにどうやら、住宅街の細々した景色から見渡しのいい河川敷に到着した。
緑がそこら中に散らばるように一生懸命に咲き、下の方を流れている川は朝日を反射して煌めきを放っている。長閑で私の汚れてしまった心が浄化されていく気分。
近くで緑の雑草たちを見てみると、どれもが力強く生きているようにさえ見えてくる。クローバーやヒメジョオン。この二つしか知っている雑草はなかったが、他にも黄色、青色の種々が太陽の光を気持ちよさそうに浴びている。
「んー、空気が美味しいな」
住宅街でも空気が美味しいとは思ったが、この河川敷は別格の空気の美味しさ。周りの木々や植物たちが二酸化炭素を吸収してくれているおかげで、空気が新鮮に保たれている。
普段は気が付かないようなことばかりが見えてくる。私の身近にもこんなに素敵な場所が、存在していたとは思いもしなかった。
きっと知っていても今みたいな感動はないだろう。命の期限を知っているからこその感動に違いない。
地に生える緑の雑草たちが、早朝の夏風に揺られる音。私の真横を通り過ぎていく自転車に乗ったおじいちゃんの荒い息遣い。こちらに向かって走ってくる人の軽やかなリズムの足音。
どれもが鮮明に私の耳の奥底まで響き渡ってくる。住宅街の喧騒の中では感じることができない小さな音たち。
後ろから近づいてきていたはずの、軽快なジョギング音が私の真後ろでピタリと止む。振り返らなくてもその人が肩で息をしているのがわかる。荒々しい呼吸音がゆっくりと普遍的なリズムへと変わっていく。
「・・・はぁ。あの、もしかして夏目さん?」
誰の声かすぐにわかってしまう。だって、この声は今日私が楽しみにしている花火大会を共に過ごす相手なのだから。
「柊くんも眠れなかったの?」
振り返らずに彼に返事をする私。側から見たら異様な光景にも見えるだろう。男女が互いに前を向いたまま立ち止まっているのは。それにきっと彼も驚いているに違いない。声だけで彼と判断してしまったことに。
「花火大会が楽しみすぎて眠れなかったんだ。夏目さんも?」
思ってた以上に彼の声からは驚きは感じられなかった。むしろ、普段の彼のままにも思える。
「うん。実はそうなのかもしれない・・・」
本当は楽しみで早起きしてしまったのに、なぜか彼に話すのは恥ずかしかったから少しだけ返答を濁してしまう。そろそろ彼の方を見たほうがいいかと思い、後ろを振り返る。
私と瓜二つの格好をした彼の姿が目に映る。いかにもスポーツができます!みたいな出立ちの彼にちょっとだけ嫉妬をしてしまう。しかし、目線が上にいくにつれて彼の様子がおかしいようにも見えてくる。
日の当たり加減なのだろうが、彼の頬がほんのり赤みがかっている気がする。
「い、いきなり振り向かないでよ!準備できてないから」
なんの準備かはわからないが、頬を染めたままあたふたと慌てている彼。
「それにしても、朝からジョギングなんてえらいね」
「そうかな?僕からしたら日課だったから。毎朝こうして走っているから別に大したことないよ」
「え、学校の日も?」
「うん。そうだよ。ま、いつもより早い時間帯だけどね」
「羨ましいな・・・」
ついつい口からこぼれ落ちてしまった。羨望していることを何も彼に話したかったわけではないのに、気持ちよさような彼を見ているうちに自然と思ってしまった。
「そっか。いつか、僕と並んで走ってくれたら嬉しいな」
なんだろう...この胸のざわめきは。彼の優しさに触れて心が揺れている感じ。私のことを深く詮索せずにそっと優しく見守ってくれる。
普通ならどうして羨むのか聞いてくるはず。走ることは基本的に誰でもできることだから。それをあえて聞いてこないのが、私には妙に心地よかった。
彼と隣で走ることは私にはできないけれど、いつか走りたいなと私はこの時不覚にも思ってしまったんだ。いつか...私の命の灯火が消えて無くなってしまう前に。
彼と目線を交じり合わせ、首を縦に振る。言葉にしたら、絶対に守らないといけない。だから、言葉なしの返事をしたんだ。守りたくても守れない約束もこの世界には存在するから。
「ねぇ、今から少しでいいから時間あったりする?」
「大丈夫だけど、何かするのかな」
「この河川敷をちょっと一緒に歩かない?」
「それは断る理由がないね!」
ニヤッと不敵に笑った彼の顔を私はこの先忘れることはない。あんなに悪い顔もできるのだと、この時知ったんだ。
徐々に気温が上昇しているのが、肌で感じられる。ほんのりと汗ばむ背中と額。先ほどまでは全く出なかった汗が嘘みたいに出てくる。汗だくってほどではないが、若干体がベタつくようで気持ちが悪い。
「走るのもいいけどさ、こうしてのんびり歩くってのも案外気持ちいいね。なんだが、自然そのものを肌で味わっている気持ちになるよ」
私が感じていた気持ちを簡単に代弁してくれる彼。彼と私は意外と似たもの同士なのかもしれない。
「分かりみが深いね。私もここにきてからずっとそのことばかり考えてるの」
「同じだね僕たち。なんだか嬉しいな。最近の夏目さんはちょっとだけど、考えていることがわかるようになってきた気がするんだ。最初の頃なんて何考えてるかわからなかったけどね」
最初の頃...あの教室での自己紹介の日のことを言っているのだろうか。あの時に比べたら、私はだいぶ変わった気がする。余命に囚われて、生きる意味を失っていた日々だった。
今でも私はなんのために生きているのかはわからないが、この命が尽きるまでは精一杯人生を楽しんでみようとは思っている。私が知らないだけで、世界にはまだまだ美しい景色や瞬間が存在するだろうから。
「ははっ。あの時は色々不幸が重なってね。だから、あまり周りのことが見えてなかったんだ。ほんとごめん」
「いや、いいんだ。そのおかげでこうして夏目さんと僕は仲良くなれたし、花火大会も2人で行けるからさ。僕、神様は信じないけど、運命は信じてるんだ。恥ずかしいけどね」
「運命か・・・簡単に言える言葉だけれど、この言葉の本質は難しいよね。運命だと思っていてもそれは必然的に起こる事象だったかもしれない」
「確かにそうだね。僕たちの出会いはどちらだったんだろうね。運命、それとも必然的。どっちだと思う?」
難しい質問。運命と言われれば、運命なのだあろう。でも私たちの間に何かしらの繋がりが昔から存在していたのであれば、それは必然的と言ってもいいのかもしれない。
例えば、生き別れの兄弟だったりとか...考えたくもないが。
「不思議だよね。世界ってこんなにも広いのに一生で出会える人は限られている。そう考えると、この出会いを大切にしないとって思えてくるよ」
「うん。なんだか、堅苦しい話になっちゃったね。こんな話するつもりじゃなかったんだけどな・・・」
「そうなの?僕は楽しいよ。夏目さんの考えていることに共感できたし、そんな考えもあるのかって新たな発見もできたし!」
彼の言葉にはいつだって、嘘偽りが存在しない。その証拠に顔には夏の代名詞的なあの黄色の花のような笑顔が張り付いていた。
太陽の輝きを吸収しているのではなく、反射しているみたいに。
それから彼とは他愛もない話を30分ほど続けて別れた。『また後で』という言葉を互いに残るように。
私と別れた後、彼はすぐさま走り去って行ってしまった。数秒ほどで見えなくなってしまう彼の後ろ姿が、私にはやけに大きく頼り甲斐のある背中に見えた。
歩いてきた道のりを逆走しながら帰路に着く。行きで見ていた景色とはまた違った景色が、映り込んでくる。日の当たり加減、草木の生え方、家の構造、止まれの標識。全てが行きとは違って新鮮に思える。
帰りは行きよりも時間をかけて周囲を観察しながら歩いたこともあり、思ったよりも時間がかかってしまった。家に着いた頃には既に時刻が8時をすぎて、両親も起床していた。
玄関を開けるなり『ただいま』と伝えると、いい匂いが私の鼻まで香ってくる。これはソーセージを焼いた時の匂い。
リビングからフライを持ったまま玄関に現れる母親。なんとフライの上には器用に目玉焼きが乗っているではないか。
「あら、散歩でもしてたの?珍しいわね」
「うん。目が覚めちゃってさ。それより、目玉焼き落とさないでよね」
「もしかして、今日の花火大会が楽しみで・・・とか?」
本日二度目の悪い笑みを目の当たりにする。彼の笑みとはまた違った私の心の内を深く詮索してくるような見透かしている笑み。
それに、目玉焼きのことに関してはノータッチらしい。
「う、うるさいな。もういいでしょ!早く朝ごはん食べよう」
「今度紹介してね!ご飯の前に手を洗ってきて」
「はいはい」
「あ、今のはオッケーってことよね。あらー、楽しみが増えたわ」
「ち、違くて!」
そそくさとリビングに逃げる母。どうやら、最後まで聞く気すらなかった様子。相変わらず、母は手強いなと思ってしまう。親友の二人とも親の話をするが、どちらも母親には敵わないらしい。
どこの家も母は手強いというのは共通事項なのかもしれない。
手洗いうがいを手短に済ませ、朝食の匂いが漂うリビングに足を踏み入れる。一週間前までは味も匂いも感じられなかったが、今はこうしてソーセージの焼いた香りと卵の温かな家庭染みた匂いもはっきりと感じられる。
「おはよう、お父さん」
椅子に座って新聞を眺めている父。
「あぁ、おはよう。二人して朝から何を騒いでいたんだ?」
眼鏡の奥から覗く父の目は、優しさに溢れている。どんなことに関しても寛容な父。あの日見た父の涙はあれ以来見ていない。私にとって印象深い父の涙だった。
「それがね、火花ったら今日男の子と花火大会に行くらしいのよ〜」
「ちょ、お母さん!」
言わなくていいことをこんなにも簡単に話してしまう母に若干殺意が湧く。何も父にまで言わなくてもいいのに。何せ、柊くんは彼氏ではなくただの友達なのだから。変に誤解されてしまっては困るのだ。
「それは、本当なのか。母さん」
「えぇ、本当よ」
「そ、そんな火花が男とデート・・・嘘だよな?」
お母さんをチラッと睨みつけ、お父さんと目線を合わせる。お母さんに向けていた視線とは別物の了承を得るための落ち着いた様子で。
「本当なんだ。今日の花火大会はクラスメイトの男の子と行くことにしたの・・・」
「そうなのか・・・」
あからさまに落ち込んでいる様子の父。自分の娘もそんな年頃になったのかと寂しい気持ちに入り浸っているのだろう。
「あのお父さん。行ってもいいかな?」
父の目が大きく開かれる。
「当たり前だ。娘のしたいことを父親が邪魔するわけにはいかないからな。十分気をつけて行っておいで」
「ありがとう、お父さん」
「少しだけ寂しいけど、父さんは我慢するよ・・・」
「あなた、カッコつけた後にそれはダサいわよ!」
「ちょ、母さんそれだけは言わんでくれよ」
三人で顔を合わして笑い合う。朝のリビングには昔みたいに賑やかな家族だった頃を彷彿させるかのような空間がそこにあった。
お父さんの右手に掲げられているコーヒーから出ている湯気が、私たち三人の間を静かに立ち昇っていった。
ベッドの隅に置かれた目覚まし時計で時刻を確認する。4時25分。最近は夏休みだったこともあり、起床時間は学校のある日に比べて一時間ほど遅くはなった。
大体最近起きる時刻は、7時半頃。三時間の早起きということになる。
二度寝をしようともう一度目を閉じるが、既に意識が覚醒してしまって全く眠れそうにない。それに加えて、なぜだか睡眠時間が短いにもかかわらず、心なしかスッキリしている気もする。
こんなにも早く目が覚めてしまった理由は一つしか考えられない。きっと日向と千紗に話したら、『小学生かよ!』と馬鹿にされることだけは目に見えている。
そのくらい私は今日の花火大会を楽しみにしているのだろう。自分の認識ではそこまで強くは感じられないが、本能的には待ち遠しいに違いない。
そうでなければ、小学生の修学旅行前みたくこんなに早起きすることはないのだから。
特に何もすることがなく、ベッドの上で寝転がりながらネットサーフィンをする。様々なsnsを行ったり来たりと。
動画を見ては、検索にはしり、また動画へ戻る。有意義な時間だと感じるが、よく考えるとただの暇つぶしをして時間を無駄にしているような気もしなくもない。
再度時間を確認すると、時刻は5時15分。起きてから約50分くらいは経過したようだ。薄暗い部屋にカーテンの隙間から差し込んでくる朝日に目が少しチカチカする。
起きてからしばらく経つが、ようやくカーテンへと手を伸ばし、ゆっくりと両手でカーテンを開いていく。瞬時に私の暗い部屋に差し込んでくる大量の光。
「わぁ〜!」
窓越しに映る景色に思わず声を漏らしてしまう。ありふれた日常の風景に変わりはないが、何かが違って見える。時間が変わるだけで、自分が住んでいる場所には思えないほどに。
オレンジ色の夕焼けに近い光が、まだ薄暗く闇に包まれている家々を徐々に照らし始めている。まるで、空から神様が降りてくるかのような神秘的な光景。
誇張しすぎかとも思うが、私の目からすると本当にそのくらい幻想的に映って見えるんだ。家に閉じこもってばかりいたら、私はこんな綺麗な光景さえも見逃していた。
薄い一枚の隔たりをなくしてこの景色を目に収めておきたい。ロックを解除して、寝ている近所の人が起きないようにゆっくりと窓を開ける。
"キィィィ"
と音を立てながら、窓を開ける。思わず息をするのを忘れてしまうくらい、私から言葉が失われる。
私の部屋に流れ込んできたのは、夏の風とは思えないほど涼しく爽やかな風。初めて経験するわけでもないのに、なぜか私は今この瞬間に感動している。
一度心をどこかに置き去りにしてしまったから、この感動があるのかもしれない。『死』が近づいたことによって、私は知らないうちにこの世界の綺麗な部分をさらに他人よりも美化している。
そう考えなければ、こんな些細なことでここまで驚くはずがないのだ。
何分くらい外を眺めていたのだろうか。気づけば住宅街からは闇が消え去り、辺り一面が光に飲まれているではないか。
新聞配達のバイク、おじいちゃんの犬の散歩、ジョギングをしている若い女性。皆がこの夏の朝を快適に過ごしているように見えてしまう。
私も外を眺めているだけで特に何もしていないが、遥かに先ほどのネットサーフィンをしている時間よりも、有意義で心が休まる時間となったのは言うまでもない。
胸の高揚感を抑えられないまま、クローゼットから半袖短パンのジャージを取り出し着替える。手には携帯とワイヤレスイヤホン。もちろん靴はランニングシューズで。
ランニングをするわけではない。夏の朝の澄んだ涼しい空気を肌で実感したかった。側から見たらジョギングをする格好にしか見えないが、生憎私は走ることができない。
こんな朝早く人通りも少ない時間に倒れてしまったら、それはもう確実に『死』が待ち受けているだろう。数分のうちに私の心臓は負荷に耐えられなくなって、いずれ止まる。
格好だけは一丁前だが、歩くことしかできないのがひどく悔しい。
玄関の扉を静かにまだ寝ている両親を起こさないように、そっと閉じていく。"ガチャ"という音が聞こえてくるまで指を離さないように。
私の両親は、私の余命が残り一年と先生に伝えられてから、私のすることに関してだいぶ寛容になった気がする。危険なことや体に負担がかからないこと以外であれば、基本的になんでもさせてくれる。
それが私には嬉しくもあるが、同時に寂しい感じもする。あと一年しか生きられないということに対する『自由』だと捉えてしまっているのかもしれない。
絶対に両親はそんなふうには思ってはいないだろうけれど。もしかしたらと、私はそんな卑屈なことを考えてしまう。
日中の真夏とは、まるで違うような世界線。私の体を通り抜けていく風や空気たちは夏特有の温かさを含んではいるが、どれも涼しいものばかり。本当に真夏なのかと疑ってしまうほど。
家の隙間から漏れ出して、私の視界を贅沢に彩る朝日。どれもが、私には新鮮に感じられる。
清々しい気持ちに包まれながら、目的もなしに足取りを進めていく。笹舟が川の水に流され、どんどんと下流へと流れていくようにひたすらどこかを目指して。
耳からは軽快な音楽が流れる。私のプレイリストは、ほとんどが最近の曲が収録されている。最近は空前の昔の曲ブームになっているが、私は流行りには乗らない。
そう言いつつも、私のプレイリストには誰もが知っているアニメーション映画の心地のいい音楽しか入っていないのだが。代表的な作品の音楽から少しマニアックな作品の音楽全てがこの携帯にメモリーされている。
散歩中、耳にするには優雅でピッタリすぎるので、みんなにも聞いてほしいと密かに思っているが、正直私だけの秘密にしたい気もしてやまない。
ちなみに今流れている曲は、世界的にも有名な温泉宿の映画の音楽。神様とか蛙とか豚など、その他諸々。滑らかで上品な音色が私の足取りと心を清らかにしていく。
音楽に詳しくない私でもこの曲は、何か独特なものを感じてしまう。その正体がなんなのかまでは私には当然わかるはずもないけれど...
歩いているうちにどうやら、住宅街の細々した景色から見渡しのいい河川敷に到着した。
緑がそこら中に散らばるように一生懸命に咲き、下の方を流れている川は朝日を反射して煌めきを放っている。長閑で私の汚れてしまった心が浄化されていく気分。
近くで緑の雑草たちを見てみると、どれもが力強く生きているようにさえ見えてくる。クローバーやヒメジョオン。この二つしか知っている雑草はなかったが、他にも黄色、青色の種々が太陽の光を気持ちよさそうに浴びている。
「んー、空気が美味しいな」
住宅街でも空気が美味しいとは思ったが、この河川敷は別格の空気の美味しさ。周りの木々や植物たちが二酸化炭素を吸収してくれているおかげで、空気が新鮮に保たれている。
普段は気が付かないようなことばかりが見えてくる。私の身近にもこんなに素敵な場所が、存在していたとは思いもしなかった。
きっと知っていても今みたいな感動はないだろう。命の期限を知っているからこその感動に違いない。
地に生える緑の雑草たちが、早朝の夏風に揺られる音。私の真横を通り過ぎていく自転車に乗ったおじいちゃんの荒い息遣い。こちらに向かって走ってくる人の軽やかなリズムの足音。
どれもが鮮明に私の耳の奥底まで響き渡ってくる。住宅街の喧騒の中では感じることができない小さな音たち。
後ろから近づいてきていたはずの、軽快なジョギング音が私の真後ろでピタリと止む。振り返らなくてもその人が肩で息をしているのがわかる。荒々しい呼吸音がゆっくりと普遍的なリズムへと変わっていく。
「・・・はぁ。あの、もしかして夏目さん?」
誰の声かすぐにわかってしまう。だって、この声は今日私が楽しみにしている花火大会を共に過ごす相手なのだから。
「柊くんも眠れなかったの?」
振り返らずに彼に返事をする私。側から見たら異様な光景にも見えるだろう。男女が互いに前を向いたまま立ち止まっているのは。それにきっと彼も驚いているに違いない。声だけで彼と判断してしまったことに。
「花火大会が楽しみすぎて眠れなかったんだ。夏目さんも?」
思ってた以上に彼の声からは驚きは感じられなかった。むしろ、普段の彼のままにも思える。
「うん。実はそうなのかもしれない・・・」
本当は楽しみで早起きしてしまったのに、なぜか彼に話すのは恥ずかしかったから少しだけ返答を濁してしまう。そろそろ彼の方を見たほうがいいかと思い、後ろを振り返る。
私と瓜二つの格好をした彼の姿が目に映る。いかにもスポーツができます!みたいな出立ちの彼にちょっとだけ嫉妬をしてしまう。しかし、目線が上にいくにつれて彼の様子がおかしいようにも見えてくる。
日の当たり加減なのだろうが、彼の頬がほんのり赤みがかっている気がする。
「い、いきなり振り向かないでよ!準備できてないから」
なんの準備かはわからないが、頬を染めたままあたふたと慌てている彼。
「それにしても、朝からジョギングなんてえらいね」
「そうかな?僕からしたら日課だったから。毎朝こうして走っているから別に大したことないよ」
「え、学校の日も?」
「うん。そうだよ。ま、いつもより早い時間帯だけどね」
「羨ましいな・・・」
ついつい口からこぼれ落ちてしまった。羨望していることを何も彼に話したかったわけではないのに、気持ちよさような彼を見ているうちに自然と思ってしまった。
「そっか。いつか、僕と並んで走ってくれたら嬉しいな」
なんだろう...この胸のざわめきは。彼の優しさに触れて心が揺れている感じ。私のことを深く詮索せずにそっと優しく見守ってくれる。
普通ならどうして羨むのか聞いてくるはず。走ることは基本的に誰でもできることだから。それをあえて聞いてこないのが、私には妙に心地よかった。
彼と隣で走ることは私にはできないけれど、いつか走りたいなと私はこの時不覚にも思ってしまったんだ。いつか...私の命の灯火が消えて無くなってしまう前に。
彼と目線を交じり合わせ、首を縦に振る。言葉にしたら、絶対に守らないといけない。だから、言葉なしの返事をしたんだ。守りたくても守れない約束もこの世界には存在するから。
「ねぇ、今から少しでいいから時間あったりする?」
「大丈夫だけど、何かするのかな」
「この河川敷をちょっと一緒に歩かない?」
「それは断る理由がないね!」
ニヤッと不敵に笑った彼の顔を私はこの先忘れることはない。あんなに悪い顔もできるのだと、この時知ったんだ。
徐々に気温が上昇しているのが、肌で感じられる。ほんのりと汗ばむ背中と額。先ほどまでは全く出なかった汗が嘘みたいに出てくる。汗だくってほどではないが、若干体がベタつくようで気持ちが悪い。
「走るのもいいけどさ、こうしてのんびり歩くってのも案外気持ちいいね。なんだが、自然そのものを肌で味わっている気持ちになるよ」
私が感じていた気持ちを簡単に代弁してくれる彼。彼と私は意外と似たもの同士なのかもしれない。
「分かりみが深いね。私もここにきてからずっとそのことばかり考えてるの」
「同じだね僕たち。なんだか嬉しいな。最近の夏目さんはちょっとだけど、考えていることがわかるようになってきた気がするんだ。最初の頃なんて何考えてるかわからなかったけどね」
最初の頃...あの教室での自己紹介の日のことを言っているのだろうか。あの時に比べたら、私はだいぶ変わった気がする。余命に囚われて、生きる意味を失っていた日々だった。
今でも私はなんのために生きているのかはわからないが、この命が尽きるまでは精一杯人生を楽しんでみようとは思っている。私が知らないだけで、世界にはまだまだ美しい景色や瞬間が存在するだろうから。
「ははっ。あの時は色々不幸が重なってね。だから、あまり周りのことが見えてなかったんだ。ほんとごめん」
「いや、いいんだ。そのおかげでこうして夏目さんと僕は仲良くなれたし、花火大会も2人で行けるからさ。僕、神様は信じないけど、運命は信じてるんだ。恥ずかしいけどね」
「運命か・・・簡単に言える言葉だけれど、この言葉の本質は難しいよね。運命だと思っていてもそれは必然的に起こる事象だったかもしれない」
「確かにそうだね。僕たちの出会いはどちらだったんだろうね。運命、それとも必然的。どっちだと思う?」
難しい質問。運命と言われれば、運命なのだあろう。でも私たちの間に何かしらの繋がりが昔から存在していたのであれば、それは必然的と言ってもいいのかもしれない。
例えば、生き別れの兄弟だったりとか...考えたくもないが。
「不思議だよね。世界ってこんなにも広いのに一生で出会える人は限られている。そう考えると、この出会いを大切にしないとって思えてくるよ」
「うん。なんだか、堅苦しい話になっちゃったね。こんな話するつもりじゃなかったんだけどな・・・」
「そうなの?僕は楽しいよ。夏目さんの考えていることに共感できたし、そんな考えもあるのかって新たな発見もできたし!」
彼の言葉にはいつだって、嘘偽りが存在しない。その証拠に顔には夏の代名詞的なあの黄色の花のような笑顔が張り付いていた。
太陽の輝きを吸収しているのではなく、反射しているみたいに。
それから彼とは他愛もない話を30分ほど続けて別れた。『また後で』という言葉を互いに残るように。
私と別れた後、彼はすぐさま走り去って行ってしまった。数秒ほどで見えなくなってしまう彼の後ろ姿が、私にはやけに大きく頼り甲斐のある背中に見えた。
歩いてきた道のりを逆走しながら帰路に着く。行きで見ていた景色とはまた違った景色が、映り込んでくる。日の当たり加減、草木の生え方、家の構造、止まれの標識。全てが行きとは違って新鮮に思える。
帰りは行きよりも時間をかけて周囲を観察しながら歩いたこともあり、思ったよりも時間がかかってしまった。家に着いた頃には既に時刻が8時をすぎて、両親も起床していた。
玄関を開けるなり『ただいま』と伝えると、いい匂いが私の鼻まで香ってくる。これはソーセージを焼いた時の匂い。
リビングからフライを持ったまま玄関に現れる母親。なんとフライの上には器用に目玉焼きが乗っているではないか。
「あら、散歩でもしてたの?珍しいわね」
「うん。目が覚めちゃってさ。それより、目玉焼き落とさないでよね」
「もしかして、今日の花火大会が楽しみで・・・とか?」
本日二度目の悪い笑みを目の当たりにする。彼の笑みとはまた違った私の心の内を深く詮索してくるような見透かしている笑み。
それに、目玉焼きのことに関してはノータッチらしい。
「う、うるさいな。もういいでしょ!早く朝ごはん食べよう」
「今度紹介してね!ご飯の前に手を洗ってきて」
「はいはい」
「あ、今のはオッケーってことよね。あらー、楽しみが増えたわ」
「ち、違くて!」
そそくさとリビングに逃げる母。どうやら、最後まで聞く気すらなかった様子。相変わらず、母は手強いなと思ってしまう。親友の二人とも親の話をするが、どちらも母親には敵わないらしい。
どこの家も母は手強いというのは共通事項なのかもしれない。
手洗いうがいを手短に済ませ、朝食の匂いが漂うリビングに足を踏み入れる。一週間前までは味も匂いも感じられなかったが、今はこうしてソーセージの焼いた香りと卵の温かな家庭染みた匂いもはっきりと感じられる。
「おはよう、お父さん」
椅子に座って新聞を眺めている父。
「あぁ、おはよう。二人して朝から何を騒いでいたんだ?」
眼鏡の奥から覗く父の目は、優しさに溢れている。どんなことに関しても寛容な父。あの日見た父の涙はあれ以来見ていない。私にとって印象深い父の涙だった。
「それがね、火花ったら今日男の子と花火大会に行くらしいのよ〜」
「ちょ、お母さん!」
言わなくていいことをこんなにも簡単に話してしまう母に若干殺意が湧く。何も父にまで言わなくてもいいのに。何せ、柊くんは彼氏ではなくただの友達なのだから。変に誤解されてしまっては困るのだ。
「それは、本当なのか。母さん」
「えぇ、本当よ」
「そ、そんな火花が男とデート・・・嘘だよな?」
お母さんをチラッと睨みつけ、お父さんと目線を合わせる。お母さんに向けていた視線とは別物の了承を得るための落ち着いた様子で。
「本当なんだ。今日の花火大会はクラスメイトの男の子と行くことにしたの・・・」
「そうなのか・・・」
あからさまに落ち込んでいる様子の父。自分の娘もそんな年頃になったのかと寂しい気持ちに入り浸っているのだろう。
「あのお父さん。行ってもいいかな?」
父の目が大きく開かれる。
「当たり前だ。娘のしたいことを父親が邪魔するわけにはいかないからな。十分気をつけて行っておいで」
「ありがとう、お父さん」
「少しだけ寂しいけど、父さんは我慢するよ・・・」
「あなた、カッコつけた後にそれはダサいわよ!」
「ちょ、母さんそれだけは言わんでくれよ」
三人で顔を合わして笑い合う。朝のリビングには昔みたいに賑やかな家族だった頃を彷彿させるかのような空間がそこにあった。
お父さんの右手に掲げられているコーヒーから出ている湯気が、私たち三人の間を静かに立ち昇っていった。