みずいろに焦がれる
口の中に鉄の味がじわりと広がる。
体のどこにも傷がないのにそう感じるのは、悲惨な光景を目の当たりにした直後だからだろうか。
家族のように一緒に過ごし戦ってきた仲間達が、この世界を蝕む悪―――魔王を前に瀕死状態にさせられてしまった。
一時は優勢だっただけに、この反撃はかなり堪える。
それでも諦めずボロボロの体で血を吐き、立ち上がろうとする仲間達の姿を見て、わたしの決意はたった今固まった。
聖女だけが身に付けられる〈防御〉の魔石がはめられたネックレスをはずし、目の前にいる彼の首にかける。
魔王の攻撃からかろうじて急所を避けた彼は、傷だらけの膝をつき、金髪の奥からわたしを睨みつけた。
「何だこれ、どういうつもりだよ」
「すみません、さっきのダメージで石に半分くらいヒビが入っちゃいました。でも、あと一回くらいは使えると思います。あなたが庇ってくれなかったら、わたしは今頃死んでいたかもしれません」
「ふざけんな。これはおまえのだろうが」
「だめです。あなたが持っていてください」
ネックレスをはずそうとする彼の手首を掴む。
こんなことくらいで怒れる気力があるんだから、まだ彼には余裕がある。大丈夫だ。
けれど、どうかわたしを恨まないで欲しい。
すべてが終わった後、同じ悲劇が二度と繰り返されないように、この呪われた土地を清め、祈りを捧げるという大切な使命をわたしが手放すことになっても。
「最後の手段です。わたしはもう使わないので、お守り代わりだと思ってどうか受け取ってください。あなたがこれを使うことにならないよう、わたし頑張りますから」
彼の手首を握っていた手で拳を作り、白いローブで覆われた自分の胸をとんとんと叩く。
わたしなら大丈夫と自分に言い聞かせるように。
わたしは今から、かつて誰も成功させたことのない禁忌魔法を発動させようとしている。
一か八かの賭けだけど、成功すれば間もなく魔王は消滅するはずだ。
ただ、それと引き換えに術者は命を失う。
この魔法が禁忌とされている理由はそのためだ。
そんなものに頼らなければならないほど、この戦いは追い詰められている。
わたしは地面を踏みしめるようにその場で立ち上がった。
「待てよ。最後の手段? 頑張る? どういうことだよ、ちゃんと説明しろ」
背後から聞こえてくる愛おしい声に、わたしはふるふると首を振った。
「待てません。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。必ず成功させます。誰も死なせはしませんから」
「答えになってねぇよ。魔王を倒した後、祈りを捧げるのがおまえの使命だろうが。ここは何とかする。余計なことは考えずに、おまえは自分のことだけ考えろ」
「そうですね。この土地を清めなければまたいつか魔王が復活するかもしれません。でも、それはずっと先の話でしょう。そんな先のことよりもまずは今、みんなを助けないと」
「だから何とかするって言ってんだろ。いいから下がれ」
聖女にしか発動できない禁忌魔法を扱えるのは聖女であるわたしだけだ。
だから彼の言うことは聞けない―――聞けないはずなのに、なぜか足を踏み出せなかった。
それは、背中に痛いほど彼の視線を感じるからだろうか。
それとも人生最後の言葉が『待てません』だなんてあんまりにもひどいじゃないか、と思うからだろうか。
わたしはその場でくるり、と振り返った。
彼を見下ろすと、まだ16歳のあどけなさが残る水色の瞳に真っ直ぐ射抜かれる。
この瞳が好きだった。
抜けるような青空を思わせるこの瞳が。
「わたしは幸せでした。とても」
「は?」
「あなたと出会えて幸せでした。だからあなたも幸せになってください。どうか、わたしのことは忘れて」
彼とあの子が幸せそうに肩を寄せ合う姿が目に浮かび、胸がキュッと詰まる。
命懸けのこの状況下で切ない気分に浸れるんだから、わたしは根っから能天気なんだろう。
いつも彼にそう言われ続けてきたけど、今になってようやくその意味が理解できた。
思わず、くすりと笑みがこぼれる。
「何だよ……何で笑ってんだよ!」
「いいえ、今まで楽しかったなと。本当ですよ。心から楽しかったんです、わたしにはあなたがいたから」
どんな形であれ、彼のそばにいたかった。
その願いはもう叶わないけど悲しむ必要もない。
彼にはあの子がいて、あの子には彼がいて。
わたしは、彼らの幸せを守る術を持っている。それだけで充分だ。
地の底から這い上がるような唸り声が、わたし達の会話を瞬く間に掻き消す。
空を見上げると、気味の悪い真っ黒な雲が巨大な渦を巻き始めていた。
魔王は、また同じ攻撃をわたし達に仕掛ける気でいるらしい。
次にあれを受ければ、今倒れている仲間達も含めて間違いなく全員死ぬ。
わたし達が負ける訳にはいかない。
ここで時間切れだ。
最後に、この水色の瞳を見られてよかった。
もう何年も空を覆っている不気味な雲の向こうでは、彼の瞳と同じ色の空が今も広がっている。
―――あの澄んだ青に、世界がまた包まれますように。
彼の瞳を見つめながら、もう見られない晴れ渡った水色の空を思い浮かべた。
再び、耳をつんざくような唸り声が轟き、風が吹き荒れる。
彼は固い地面に愛剣を突き刺して立ち上がると、わたしの両肩を掴んだ。
力が強くて痛い。こちらに向かって何かを言ったようだけど、声が風に呑まれて上手く聞き取れなかった。
次いでネックレスを乱暴にはずし、それをわたしの頭に無理やりくぐらせようと手を伸ばして来る。
が、その手を力いっぱい払い除け首を横に振った。
ネックレスが音もなく地面に転がり落ちる。
水色の瞳からフッと光が消えた。
あぁ、待って、そんな顔をしないで。
わたしは大丈夫。もう充分だから。
今まで幸せだった。
彼からすれば、わたしは頼りないんだろう。
それでも、ここは任せて欲しい。
こんなわたしの命一つですべて解決するんだから。
今まで仲間に守られるだけで、何の役にも立てなかったわたしの命たった一つで。
「わたしにも守らせてください、あなたを」
落ちたネックレスを拾い、彼の傷付いた手に収めて包み込むようにぎゅっと握る。
彼は唇を引き結んだまま動かない。こちらを見つめているだけだ。
どうやら、わたしの声も聞こえていないらしい。
耳元で風の音がごうごうと鳴る。
それなのに、わたし達だけ時が止まったように静かだ。
彼の頬を指先でなぞりながらそっと包み込む。
こうして触れたのは、いつぶりだろうか。
彼の頬は、思ったよりも冷たかった。
幼い頃から知っている、わたしよりも2歳下の彼。
泣き虫だった彼をなだめる時はいつもこうしていた。
当時は人形みたいに可愛らしかったのに、いつの間にかわたしの背を追い越して、今では美しく逞しい少年になっている。
この先彼がどんな成長を遂げるのか、わたしはもう知ることはできない。
そしてもう二度と、この水色の瞳にわたしが映ることもない。
わたしがいなくなった後、彼はわたしを思い出してくれたりするんだろうか。
わたしのことは忘れて、なんて言ったくせにやっぱり忘れて欲しくない自分がいる。
もしも、これからわたしを思い出してくれる瞬間がほんの数秒でもあるとするなら、幸せそうに笑っているわたしの顔を思い出して欲しい。
こんな結末を迎えたことで、彼が自分を責めてしまわないように。
わたしは精一杯、口角を押し上げた。
「お別れの時間です。最後だから言っちゃいますね。ずっとあなたが好きでした。だから、今まで幸せだったんです。わたしが貰った幸せを、少しでもあなたに返したい。心配はいらないですから。それでは、ありがとう。さようなら」
わたしの遺した言葉は、きっと彼には届かない。
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