みずいろに焦がれる


 真っ白な天井に、陽の光が歪んだ三角形を描いている。
 その中にできた葉の影は不規則にゆらゆらと揺れ、遠くから聞こえて来る蝉の声に応えているようだった。

 ここはどこだっただろうか、という疑問がふと頭を過ぎる。
 それくらい、昨晩は眠り込んでいたらしい。

 むくりと上体を起こすと、Tシャツがペタリと体に纏わりつく。
 全身が汗でびっしょりと濡れていて、どこもかしこもべタついて気持ちが悪い。

 シャワーでも浴びたいな。
 まだぼんやりとする頭でベッドから足を下ろし枕元を見ると、そばに分厚い小説が置いてあった。
 ページの間には、ボルドーに染まったスピンが挟んである。
 そういえば昨日の夜、眠る前にこれを読んでいた。
 正しく言い換えるなら、昨日の夜『も』だ。

 幼い頃から飽きもせず何度も繰り返し読み続けている、わたしにとって大切な物語。
 今日の夢は、この小説の内容とまったく同じものだった。 

 好き過ぎて、とうとう夢にまでみてしまうとは。
 小さな子どもがみるならまだしも、わたしはもう18歳の高校三年生だ。
 おとぎ話に心酔するような年齢でもない。
 なのに、脳は恥ずかしいくらい正直だ。
 そんな自分に苦笑しつつ、わたしは本を手に取り陽に焼けた赤い表紙を開いた。 




 昔むかし、まだ誰にでも魔法が使えていた時のこと。人々は緑豊かな世界で幸せに暮らしていた。
 そんな世界に、ある日突然魔王が降り立ち人々を支配してしまう。
 街には魔物が巣食い、黒い雲に覆われた土地は枯れ、恐怖と飢餓に混乱した人々は次々に命を落としていった。

 世界中から寄せ集められた軍隊が何度も魔王に戦いを挑むも太刀打ちできず、なす術がないと誰もが諦めかけた最中のことだ。ついに救世主が現れたのだ。

 それは、とある国の王から魔王討伐の使命を受けた聖女と五人の精鋭達。
 聖女達は様々な国を訪れ暴れる魔物を退治し、呪われた地を浄化しながら魔王の元へ向かう。
 その旅の途中、聖女は仲間の一人で幼なじみでもある騎士に長年の想いを告げようとする。
 でも騎士には恋人がいることを知り、その恋は破れてしまった。

 様々な困難を乗り越え魔王の元に辿り着いた聖女達は善戦し、あと一歩の所まで追い詰める。
 けれど魔王の力は強大で全滅寸前になるほどの反撃をくらい、もう後がなくなった聖女は、命と引き換えに精霊を呼び出した。 
 魔王は完全に消滅し、世界に再び平和が戻る。
 死んでしまった聖女は五人の仲間達と共に、いつまでも人々から愛されたという。





 《了》と書かれたクリーム色のページを一枚、ぺらりと捲る。
 好きな人に恋人がいることを知り、想いを告げず身を引いた聖女。
 彼女は命と引き換えに世界を救い、愛する人の幸せを空から見守る選択をした。

 初めてこの物語を読んだ時から、彼女はいつもわたしの心の中心にいる。憧れの女性だ。
 わたしも彼女のように誰かのために尽くしたい。
 そして彼女のように、誰かを一途に想ってみたい。
 たった一度でいいから。

(れい)、早く起きなさい! 今日は学校でしょ……って、なんだもう起きてたの? 起きてたんなら早く用意しなさい。学校に遅れるわよ」

 大きくドアが開き、部屋いっぱいに響いたお母さんの声で一気に現実へと引き戻される。
 現実のわたしは、世界を救う崇高な聖女様なんかじゃない。
 都内の高校に通う平凡な女子高生だ。

 勉強は苦手で、高校の成績はいつも中の下。
 赤点を取るほどではないけど、褒められた成績でもない。

 勉強以外に、人に言えるような趣味も特技もなく。
 容姿については触れたくもない。
 そしてこの引っ込み思案な性格のせいで、まともな恋愛すらしたことがない。

 自分で言うのもなんだけど、聖女とは程遠い地味な人生を歩んでいる。
 わたしはお母さんに気付かれないよう小さな溜め息をつき、重い体を引きずりながら自分の部屋を後にした。

 玄関のドアを開けると、どんよりとした暗灰色の雲が空を覆っていた。
 いつ雨が降り出してもおかしくない。
 起きた時は晴れていたはずなのに嫌な天気だ。

 曇った空も、雨に濡れる街の風景も昔からなぜか苦手だった。
 傘立てからビニール傘を抜き取り、暗いアスファルトを踏む。
 一日のうちで最も嫌いな瞬間。
 憂鬱な時間の始まりだった。

 一人きりの通学路を、静かな足取りで歩く。
 顔見知りの生徒達が騒がしくわたしの横を通り過ぎて行くけど、挨拶は交わさない。むこうはわたしに無関心だ。

 一緒に歩く友達も、くだらない冗談を交えながら笑い合う友達もわたしにはいない。
 人と何を話していいのか分からないと迷っているうちに、友達を作るタイミングを逃してしまった。
 だから、友達作りは諦めた。

 最寄り駅の時計の針は8時を示している。
 まだ8時だ。憂鬱な時間が過ぎるのは、じれったくなるほど遅く感じた。








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