みずいろに焦がれる




「ここから大分、離れた大学に行くって聞いたけど」

 放課後の昇降口。
 ビニール傘を握りしめたまま、地面を叩きつけるような土砂降りの雨を前に、二の足を踏んでいた時だった。

 後ろから声をかけられ振り向くと、昼間、教室で目があった彼がにこやかな笑みを浮かべながら、手を振っている。

 彼とは目があっただけで、今まで一度も話したことがない。
 それなのに、急に距離感を詰めて来られた気がして少し戸惑った。
 彼はお疲れ、と言葉を続けるとわたしの隣に並んだ。

「すっごい雨。傘さしても意味なさそうだな。もし良かったら、ここで一緒に雨宿りしていかない?」
「……一緒に? わたしと?」
「そう、わたしと」

 何が面白いのか、彼は口の端を持ち上げてケラケラと笑っている。

「面白い……ですか?」
「面白いっていうか、こうして喋られるのが嬉しいかな。前から気になってたし」
「え……」

 わたしのことが?
 思わず疑問符が口から出そうになる。
 いつも教室の隅っこで、机にじっとしがみつくように座っていたのがだめだったのかもしれない。

 わたしが思う以上に悪目立ちしていたんだ。
 だから彼はわたしのことを前から気になっていた、そういうことなんだろう。
 
「遠い大学に行くって聞いて凄いびっくりしてさ。今日絶対に話しかけようって思ってた」
「それ、誰から聞いたんですか?」
「朝、廊下で偶然。学校に来てからすぐに先生と喋ってただろ? おれも学校に着いたばかりで、廊下を歩いてたら聞こえてきてさ。ごめんね、聞くつもりはなかったんだけど」
「いえ、それは……その、誰も悪くないというか……。なので、謝らないでください」
「まあ、そうだよね。それより、同じクラスなのに何で敬語なの?」
「え……あ、そうで……。じゃなくて、そう、だね」
「彼氏はいないって思ってていい?」
「は」

 思わず変な声が出る。

「は、って。どこから出してんのその声。彼氏がいないんだったらさ、ここ離れる前に一回遊びに行かない?」
「遊びに……ですか?」
「そう、行こうよ」

 彼の顔がぐいっと近付く。
 お互いの肩がぶつかるくらい、やたらと距離が近い。
 物凄く、という訳じゃないけどいい気分でもない。どちからといえば不快だ。

 それに彼の口調や言葉の選び方に、ちょっとした引っかかりを覚える。
 わたしの性格がひん曲がっているせいでそう感じるんだろうけど。
 普段、人と接することがないから距離感が分からない。
 
「でも……」
「そっちもさ、おれに気があるんでしょ? さっきも教室で目をそらさなかったし」

 まさか。そんな誤解をされるくらいならすぐに目をそらしておけば良かった。
 あの時はなぜか彼のことが気になって、そのままじっと見つめてしまった。
 今なら気になった理由が分かる。
 彼がその場で何か言い出しそうだったからだ。

「いえ、それは……」
「ね、ほら。そんなに恥ずかしがんないで。いいじゃん」

 彼の手がこちらに伸びてくる。
 咄嗟に首を竦め、ぎゅっと固く目を閉じた。嫌だ。やめて。この手に触れられたくない。
 どっと押し寄せてくる嫌悪感に襲われた時だった。

「ほら、行くぞ」
「り、理央……!?」
 
 突然、腕を掴まれ勢いよく前に引っ張られる。その力に任せて一歩足を踏み出すと、グラウンドを流れる雨水が水しぶきを上げ、靴下にいくつか水滴の跡を作った。そのまま、二人で土砂降りの雨の中に突っ込む。体は濡れなかった。

「せんぱい、お先です」

 理央が傘を片手に振り返る。
 シャツごしに当たった胸が硬くて〈ちゃんと〉男らしい。
 彼はもう、わたしがよく知っている小さな男の子じゃない。
 
 胸の奥で鼓動がトクトク、と遠慮がちに時を刻む。
 違う、これは恋じゃない。
 認めたらだめだ。

 力強い手に引っ張られ、ハッと我に返る。
 二人で歩き始めると後ろから声が聞こえた気がしたけど、わたしも理央も振り返らなかった。

「あ、ありがとう」
「別に」
「ちょっとびっくりしちゃって」
「うん」
「なんかよく分かんなかったんだけど、ああいうの初めてだったし」
「うん」
「だから、あの……。あ、あの! ちょっと歩くの早くない?」
「早くない」

 そう言っている間にも、ぐいぐいと腕を引っ張られる。
 力が強くて痛い。気を抜けばすぐにでも転んでしまいそうだ。

 雨の音も、車が通り過ぎる音も、わたしの声も理央の耳にはしっかり届いていないのか、わたしに向けられた背中はとても静かだった。
 
「あのさ。何で……助けてくれたの?」
「何で……?」

 道路を走り去る車の音が一際、響く。
 閑静な住宅街に入ったところで、理央は足をピタリと止めた。

「だって……」

 思い切って聞いたつもりだった。
 けれど、振り返った理央の醸し出す雰囲気が怖くて、それ以上に言葉が続かない。

「助けるのなんか当たり前だろ。何で玲はおれを頼んねぇの」
「頼るって……。だって、そんなのできる訳ない……でしょ」
「何で? おれが年下だから?」
「違う、それは関係ないよ。わたしは大丈夫だから」
「何が違うんだよ。おれのこと、ガキだと思ってる癖に。一人でいるのが平気なやつがそんな顔する訳ねぇじゃん」
「平気だよ。だって一人でいるのは慣れてるから。誰にも気を遣わなくていいし。だからわたしに構わないで」
「ふぅん。鏡の前で笑う練習してたの誰だよ」
「……知ってたの?」

 アスファルトを叩く雨の音が強くなる。固い地面を貫いてしまいそうな勢いだ。
 遠くの空ではライオンのような雷鳴が雨を呼ぶ。
 ザーッという激しい音が聞こえてきたかと思えば、頭上を覆っている小さな傘の向こうで、尖った真っ白な雨が街を容赦なく切り裂いた。

 視界に広がる、大嫌いな光景。
 彼はわたしの腕をぎゅっと握った。
 この手からすぐにでも逃げ出したいけど、この白い世界には逃げられそうもない。

「おれはずっと頼って欲しかった。それなのに玲は、おれのことを遠ざけるばっかでムカついてた。今みたいに強がって何になんだよ。玲の本音を聞いて嫌になると思うか、おれが」

 腕を掴む力が強くなる。

「さっき初めて聞いたけど。遠くの大学に行くってどういうことなんだよ」
「それは……」

 全部一からやり直したかった。
 わたしのことを知らない人達がいる場所で、今度は初めから素直になってみたかった。
 誰にも相談せずに一人で決めた。
 誰かに相談することなんて考えてもいなかった。

「何でいつも一人で決めんの? おれには全部、見せろよ。弱いところも恥ずかしいとこも全部」

 理央の瞳が熱い。
 雨で全身が冷え切っているけど、理央の視線を呑み込んだわたしの瞳はすごく熱かった。
 心のどこかで、誰かに言って欲しいと願っていた言葉だ。
 それを理央に言われる日が来るとは思ってもみなかった。

 こんなことを言われて、こうして見つめられてしまったら勘違いしてしまう。
 わたしは恋なんかしていない。
 一人でも平気だ。そう思うことで、自分自身を守ってきたのに。
 こんなの。こんなの、まるで。

「ちょっと待ってよ。そんなことをわたしに言ったら、さっき一緒にいた彼女に悪いと思わないの?」
「は? 誰? さっき図書室で一緒にいたやつ?」
「そうよ。とぼけないで、好きだよって言ってたじゃない」
「ああ、あれは違う。あれは、あいつに言ったんじゃない」

 強い風が二人の間を通り抜ける。
 その風に乗った雨粒が、パチパチと頬を叩いた。
 『違うよ、これは恋じゃない。目を覚ませ』と。
 わたしの心の片隅にどうにか残った、なけなしの抵抗を煽るように―――けれど。

「もう一人で全部背負うなよ。おれがいるから」
「理央……」
「だからおれを置いて行くな」
「そんな、何言ってるの。わたし、理央を置いてなんか行かないよ」
「玲、おれの声を聞いて」




―――おれを一人にしないでくれ。
 



 


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