みずいろに焦がれる
「玲」
「レイ」
「レイチェル」
頬にポタリ、と何かが落ちてきた。
深いまどろみの中で、今自分の頬に落ちてきたものは何かと考える。
今度はポタリ、ポタリと二度落ちてきて、それが水滴だということが分かった。
水滴には微かな熱がこもっている。
心地のいい温度だ。
そういえば、どこかでわたしの名前を呼ぶ声がする。
わたしの名前を何度も何度も、悲しそうに。
あなたは一体、誰?
そして、わたしは誰だっただろうか。
わたしは―――。
「レイ……!」
瞼を開けると、白い天井を背にこちらを覗き込む彼がいた。
晴れた空のような水色の瞳は涙に濡れている。
彼はその目を大きく見開き、レイチェル、と小さく呟いた。
「医者を呼んでくれ! レイが目覚めた!」
少し離れた扉に向かって彼が叫ぶ。
すると、外からバタバタと走り回るような音が聞こえてきた。
何だか酷く慌てている。
わたしは、ざわつき始める空気を肌に感じながら重い腕を持ち上げて彼の方へと伸ばした。
光を編み込んだようなつやつやとした柔らかい金色の髪を、力の入らない指で辿々しく掬う。
わたしのよく知るやんちゃな年下の少年はどこに行ったんだろう。
今、目の前にいる彼は整った顔つきに精悍さが混じり、アーモンド型の可愛いらしかった瞳は涼し気に切れ上がっている。
美しさは増していた。
―――大人になったんですね。
疑問が解けると、秘めていた彼への想いがワッと蘇り、指先にささやかな熱を灯した。
その指で彼の頬をそっとなぞる。
もっと優しく触れたかったのに、少し震えてしまった。
今度は震えないように、手のひらでしっかりと頬を包み込む。
彼の頬は滑らかで、ふわりとして、温かかった。
「……良かったです。今日は、温かくて」
彼は何度かこくこくと頷くと、わたしの手を握り締めた。
水色の瞳から大きな涙が一粒、零れ落ちる。
その彼の涙がわたしの頬をポタリ、と濡らした。
「……泣いてくれてたんですか? わたしのために」
「当たり前だろ」
「それなら……わたしのものですね、この涙は……はは、独り占めだ」
「おまえ……バカか……」
わたしの手を握り直した彼は、ぎゅっと抱きしめるように頬を擦りつけた。
瞼を閉じた彼の目からまた一粒、涙が零れる。
たまらなく愛おしい。
わたしは決してバカじゃない。
彼の零した涙がわたしの手の甲を伝ってベッドに滑り落ちる。
既にシーツに付いたいくつかの跡を見て、土砂降りの雨を思い出した。
「ここは……?」
「……王立病院だ」
どうやらわたしは魔王との戦いの後、7年間も眠っていたらしい。
戦いの最後、命と引き換えに呼び出した精霊の持つエネルギーが体内に残り、その後も何とか生き延びることができていたそうだ。
ただ、残ったエネルギー量はほんのわずかだったから、生命を維持するだけで精一杯だったわたしの体は、眠る前と変わらず18歳のままで止まっていた。
なぜわたしの体に精霊のエネルギーが残って死なずに済んだのかは不明だ。
わたしの担当医は、精霊のご加護を授かった、という大それた仮説を立てているらしい。
とはいえ、常に容態が安定していた訳じゃなく、良い悪いを繰り返しながらの7年間だったそうだ。
特にここ最近はそのエネルギー量が不安定で、いつ死んでもおかしくない状態だったとのこと。
「夢を……みていました」
「……夢?」
「そうです、夢を……。ここではない、どこか遠い異国のような場所で暮らしていて。平和な街並みが……とても美しい所でした」
「おれも見てみたかった」
「ふふ……、でもそこで暮らすわたしの性格は相変わらずでした。人と話すことが苦手で、ひねくれていて」
「否定はしないな。でもみんなとは仲良くやってた」
「それは……みんなが優しい人達だったから。そのみんなとの旅の出来事がおとぎ話になっていたんです……。その話が大好きだったわたしは聖女に凄く憧れていて……。でも聖女はわたし自身なのに……変でしょう? わたしのことを凄く美化して……憧れてたんですよ」
彼がクスクスと笑う。
「リオも出てきましたよ。髪や目の色は違いましたが」
「おれも?」
「そうです」
彼への気持ちを認めず、誰も寄せ付けない彼女は凄く寂しそうだった。
あれは、聖女として常に正しくいなければならないと取り繕っていたわたしの本来の姿だったのかもしれない。
だからこそ、思う。
胸に秘めていたこの気持ちを、今すぐここで打ち明けたい。
そうすることで自分の弱さと向き合って新しい自分になりたい、と。
「少し……起こして貰えますか?」
彼はベッドに膝をつき、わたしの首の後ろに腕を通すと、壊れ物を扱うように優しく持ち上げてくれた。
わたしとしては座ることくらい自分でしたい。
けれど想像以上に体に力が入らず、どうにもできないから、このまま大人しく彼の腕に抱かれることにした。
「……あの時は死んでもいいと思いました。このままあなたとみんなが生き延びて幸せだったらそれでいいと。聖女として、それが本望だと思っていたんです。でも本当のわたしは……違いました」
彼はこくりと静かに頷いた。
「わたしも……幸せになりたかったんです。今度はあなたと。あなたのそばで。ゆっくりと幸せを育んでいきたかった」
ぐっと喉が詰まり、視界がじわりと滲む。
大切な時に泣いたらだめだ。情けない。
溢れそうな感情を抑え込むと、反動で何もかもが燃えるように熱くなる。
心も身体も、紡ぐ言葉も。
もう自分を誤魔化してはいけない。この恋は叶わなくてもいい。
何の見返りもいらない。
わたしは、彼のことが。ただ、彼のことが。
「あなたが好きです、リオ。あなたへの想いこそが、わたしの幸せそのものです。これからは、この幸せを噛み締めながら静かに生きていきます。これ以上は何も望みません。この幸せさえあれば、わたしはわたしらしくいられるんです」
言い切ったと同時に視界が暗くなる。
気付けば、彼に抱きしめられていた。
背中を包む彼の腕が震えている。
「聞こえてた、あの時も。おれも好きだよ、レイ。ずっと好きだった。あの時のレイの笑顔を、何度も何度も擦り切れるほど思い出した。目覚める日をどれだけ夢みていたか。おれの幸せは、レイと一緒に生きることだよ」
「待ってください、リオがわたしを好きだった……? それ、ほんとですか? そんなことあるんでしょうか。いや、まさか何かの冗談」
ピタリと震えが止まり、彼は顔を上げた。
「……そこ、そんなに疑うか。この流れで」
「だって恋人は? わたし、聞いたんですから。あの……好きだよって言ってるのを」
「は? 恋人? 何だそれ」
「違うんですか?」
「ちょっと待て、今思い出すから」
彼はしばらく考え込んだ。
何せ、彼にとっては7年も前のことだ。
思い出すのに時間がかかるのは当然だろう。
少ししてから彼は、あ、と小さな声を上げた。
「告白されて、レイが好きだから気持ちには応えられないと断ったことはあった」
「それ以外に心当たりは……?」
「ない」
「本当に……?」
お互いの身体が離れ、わたしは自然と彼を見上げた。
「ないよ。神に誓って。レイ以外の誰かを想ったことは一度もない」
間近で見る水色の瞳には、
彼の腕に抱かれたわたししか映っていない。
―――わたししか。
次第に喜びが込み上げてくる。
ゆっくりと首を縦に振ると、目尻からぽろりと涙が溢れ落ちた。
最初はほんの些細なすれ違いから始まったんだろう。
こうしてすべてを打ち明けてみると、くだらないことで強がっていた自分に気付かされる。
強がるのは、わたしの得意分野ではあるけど。
「……知ってると思いますけど、わたし相当ひねくれてますよ。多分、一生治らないと思います、この性格は」
「レイはそのままでいろよ。今度は全部、受け止めるから。それにおれももう大人だし」
「へぇ、そうですか……その言い方、何だか子ども扱いされたみたいでムカつきますね」
「おれは今までずっとそう思ってた」
「じゃあ、同じということですか……あなた、こういう気持ちだったんですね」
「そうだよ」
お互いに見つめ合い、たまらなくなって、わたしが吹き出すと彼も嬉しそうに笑みをこぼす。
「……じゃあ、大人になったリオにいくつかお願いがあるので聞いて貰えますか」
「どうぞ、好きなだけ」
「まずは今度、一緒に散歩に行きたいです。途中でお昼とかも食べたりして」
「いいよ。今、ちょうど暖かいし。外でのんびりしよう。他には?」
「……あの時、わたしの声が聞こえてたって言ってましたけど。本当にちゃんと全部聞こえてたんですか?」
「正確に言うと聞こえてはいない。唇の動きで分かった。騎士の訓練舐めんなよ」
「じゃあ、あの時にリオが何と言ってたのか教えてください。わたし、まったく分からなかったので」
彼は目を丸くさせた。
「え、」
「だって、フェアじゃないでしょう? わたしだけ分からないままなんて。だからきっちり教えてください。ダメですか?」
「いや……」
「ダメなんですか? 大人なのに」
「……分かった。おれも素直になるよ。今度、散歩しながらその時のことを話そうか」
「絶対ですよ。逃げたら許しませんから。約束してください」
小指を差し出すと、彼が小指を絡み合わせる。
しばらくそうしてから、彼はわたしの手を優しく包み込んだ。
「約束な」
やっぱり子ども扱いされている気がする。
あれから7年経って彼は23歳になり、わたしよりもずっと年上になったんだから仕方がないといえば仕方がない。
でも、それが妙に気に入らなかった。
その不満が表情に現れていたんだろう。
彼にじっと見つめられて、途端に恥ずかしくなったわたしは慌てて顔を背けた。
「な……何ですか」
「分かりやすいなと思って」
「わ、分かりやすい!? リオは何だか、おち……落ち着いてますね」
「大人だからな」
こめかみに、彼の唇が触れる。
どうやらキスをされたらしい。
緊張が一気に高まり、鼓動がうるさいほどに暴れている。
心の準備なんてまったくできていなかった。
急にキスをされるのは、いくら何でも恥ずかし過ぎる。
わたしは抗議の意を込めて彼を睨み付けた。
「あ」
水色の瞳がすぐそばでキラキラと輝いている。
今まで見てきた彼の瞳の中で、一番綺麗だった。
こんなものを見せられたら、もう何も言えなくなってしまう。
彼はずるい。わたしが、どれだけこの瞳に恋焦がれているのかを分かっている。
あれこれと考えているうちに彼の瞳がどんどん近付いてきて、とうとう見えなくなった。
彼の甘い吐息がほんのりと唇を掠める。
強引な性格は今も変わっていないらしい。
「好きだ、レイ」
わたしも、と言うのは悔しいからとりあえず心の中にしまっておく。
瞼を閉じる瞬間、彼の肩越しに見えた窓の外には、雲一つない晴れ渡った水色の空が広がっていた。
みずいろに焦がれる
〈了〉
(扉の前で息を潜めていたお医者さん達が、何食わぬ顔で室内に入って来るのはもう少し後のこと)