夕陽を映すあなたの瞳
 「伊吹くん、この図鑑読んでたの?」

 夕陽が完全に沈み、落ち着きを取り戻した心が、ソファの前のテーブルに置かれたイルカの図鑑を手に取る。

 「ああ、ちょっとね。でもこれ、なかなか勉強になるよ。イルカとクジラって、特にこれと言って明確に分類分けする定義がないんだね」
 「そう。どちらもクジラ目に属していて、体長が大体4mを超えると、クジラって呼ぶの」
 「そうなんだね。俺、イルカショーの時、久住が、クジラの仲間って紹介したのが忘れられなくて。何だっけ、オキ…」
 「オキゴンドウね」
 「そう、それ。イルカショーなのにクジラの仲間?って思って調べてみたんだ」

 へえー、さすがは伊吹くん、と心は感心する。

 「そんなひと言を覚えていてくれるなんて、なんだか嬉しい」
 「俺だけじゃないよ。きっと他にも、あとから気になって調べてみる人いると思う。子ども達とか」
 「そうだといいなー。私達の仕事の意義って、やっぱり多くの人にイルカのことを知ってもらうことだから。イルカのかわいらしさだけでなく、高い身体能力や、人間とコミュニケーションが取れるところ。あとは、いたずらっ子みたいに人間をからかったりもするし」
 「え、そうなの?」
 「う、うん、まあ。でもイルカもからかう相手をちゃんと見極めてるって言うか…。その、そんなことされるの、うちでは私くらいなんだけど…」

 心の声がだんだん小さくなる。

 「そうなんだ。凄いね!イルカって」
 「うん、知能指数も高いしね。私よりは低い…と思うけど…」

 すると昴は、心に向き直って聞いてくる。

 「久住とイルカのやり取り、見てみたいなあ。ショーだとかっこいいけど、普段はどんな感じなの?」
 「そ、それはまあ、普通よ。普通にかわいくて、体をなでて、一緒に笑って…。時々水を浴びせられたり、とか?」

 あはは!そうなんだ、と、昴は想像したのか、おもしろそうに笑う。

 心はポツリと呟いた。

 「でも、ショーでのかっこいいイルカ達の姿は、もう見られなくなるの」
 「え?それは、どういう…」

 昴の顔から、すっと笑みが消える。

 「うちの職場、イルカショーの廃止が決まったの。いずれイルカ達は、プールでの展示のみになる」

 手元に視線を落としたまま淡々と話す心に、昴は言葉を失った。

 以前この部屋で、ポロポロと涙をこぼしながら、私の大好きなこの仕事は非難されることなのかな?と言っていた心を思い出す。

 昴が何も言えないでいると、心はふっと頬を緩めた。

 「そんなに心配しないで。分かってたことだから。これからも私は、あの子達に向き合っていく。毎日しっかり心を通わせる。今までと変わらずあの子達に会えるんだもん。離れ離れになる訳じゃない。だから私は、これからも幸せなの」

 そう言って心は微笑んだ。
 その笑顔は、清らかでとても美しかった。

 昴は思わず心を抱き寄せる。

 「伊吹くん?」

 戸惑う心を、昴はきつく抱きしめた。

 「久住。久住は強いな。弱いけど強い。悲しくて涙をこぼしても、ちゃんと最後には顔を上げて前を向く。子どもみたいに無邪気だけど、しっかりとイルカ達を守ってる。嬉しい時には笑って、悲しい時には泣いて、人を想いやって寄り添って、優しくてたくましい。そんな久住が、俺は好きだ」

 昴の腕の中で、心が思わず息を呑む。

 「久住、これからもがんばりすぎるな。ちゃんと自分の気持ちに素直になるんだぞ。泣きたくなったらここに来て、俺の前で泣けばいい。いつでも俺は久住を支える。どんな時もそばにいる」

 そしてそっと身体を離すと、心の顔を覗き込む。

 「分かった?」

 心はうつむいたまま頷いた。

 昴はふっと目を細めると立ち上がり、何かを手にして戻ってきた。

 「久住、これ。ずっと持ってて」

 それは、この部屋のカードキー。
 心は慌てて首を振った。

 「そんな!留守番でもないのに、預かれないよ」
 「いいから、持ってて。そしていつでもここに来て。俺がいてもいなくても。朝早くても夜遅くても。久住の来たい時に来てくれていいから」

 昴は茶目っ気たっぷりに、
 当展望台は24時間年中無休です、と付け加えて微笑んだ。

 心もつられて笑顔になる。

 「ありがとう。本音を言うと、とっても心強くて嬉しい」
 「良かった。俺には何でも本音で話してね」
 「うん!」

 昴の優しい口調に、心はとびきりの笑顔で頷いた。
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