夕陽を映すあなたの瞳
 「ふう…」

 マンションに帰り、玄関の電気を点けると、心は急に糸が切れたようにその場にしゃがみこんだ。

 あのあと…
 佐伯を病院に運んだ桑田は、夜の8時頃にようやく帰ってきた。

 「佐伯は、検査の結果も異常なかった。ただ、強く身体を打ち付けているから、念の為今日はひと晩病院で様子を見てもらうことになった」

 心達は、神妙な面持ちでうつむく。

 「みんな、今日は遅くまで悪かった。明日からのショーは、しばらく佐伯抜きでいく。シフト変更もあるから、よろしく頼むな」
 「はい」

 そしてそれぞれやり残した業務をこなして帰って行ったが、心はどうしても気持ちの切り替えが出来ず、事務所の机に向かったまま呆然としていた。

 「…久住、大丈夫か?」

 いつの間に来たのだろう、ふいに桑田の声がして心は顔を上げる。

 「…あ、はい」

 とりあえずそう答えたが、どう聞いても大丈夫ではない返事だった。

 桑田は、ゆっくり隣の席に腰を下ろす。

 「桑田さん、私…」

 頭の中で考えることもせず、心はぼんやりとしたまま口を開く。

 「私、怖くて…。佐伯さんが、いつも完璧な佐伯さんが、あんな危ない体勢になるなんて。佐伯さんだったからなんとか堪えて、大けがにはならなかったけど、他の人だったら…。打ちどころが悪かったら、それこそ取り返しのつかないことに…」

 涙を堪えながら、心は続ける。

 佐伯は心より4つ上の、ショーチームのベテラントレーナーだった。
 心は今まで、佐伯のパフォーマンスを見て危ないと感じたことなど一度もなかった。
 それだけに、今日心が受けたショックは大きい。

 「イルカショーは、どんなに回を重ねても、絶対に毎回緊張感と集中力を切らしてはいけないのに。私、普段ルークに対して緊張感を伝えられていなかったから、だから今日、こんなことに」

 久住、と桑田が言葉を遮る。

 「今日のことはお前のせいではない。佐伯が言っていた。水面に出る直前、ふっと足を踏み外してしまったと。ルークもすぐ反応してくれたが、結果としてお互い体勢を崩したまま飛び上がってしまったと」
 「でも、佐伯さんがそんなことになるなんて今まで一度もなかったのに」
 「久住」

 桑田は、ぐっと近づいて心の顔を覗き込む。

 「いいか、よく聞け。今日のことは、誰にも起こり得ることだ。だからお前の言うように、毎回必ず緊張感を切らしてはいけない。だが、萎縮したり恐れたりすれば、それはイルカ達にも伝わる。俺達との間に信頼関係も生まれない。久住、仲間を信じろ。トレーナーやイルカ達を信じるんだ。そして一瞬たりとも気を抜かずに、互いにしっかり心を通わせながらショーを作るんだ。いいな?」

 心はじっと桑田の言葉に耳を傾け、やがてコクリと頷いた。
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