卒業証書は渡せない

34.大きな手

「よし、あの木まで競争だ!」
「負けたら荷物持ちな!」
「おう!」

 元気にそう言って、牧原君と弘樹は勢いよく走って行ってしまった。

 8月上旬、旅行の日。電車とバスを乗り継いで日帰りできる範囲でいろいろ調べて、海辺の町へやってきた。大自然とは言えないけど、都会と比べて空気は綺麗だった。

 住宅街と砂浜の間に散歩道があって、競争だ! は、弘樹が言いだした。たぶん言う前から考えていた弘樹が前を走っていたけど、牧原君だって負けていない。バスケをしているだけあって、瞬発力があった。いつのまにか、弘樹を追い越していた。

「がんばれー」
「弘樹ー、言い出しっぺが負けたら、かっこ悪いよー」

 奈緒とそうやって笑いながら、私は牧原君を応援していた。
 もちろん、弘樹にだって勝って欲しい。奈緒もきっと、弘樹を応援している。

 でも、牧原君は……学校の手続きの都合もあるかもしれないけど、わざわざアメリカから戻ってきてくれた。その気持ちを無駄にしたくなかった。

「くそー、負けた!」

 叫んだのは、弘樹。

「お昼にしようよ。ちょうど木陰で涼しいし」

 木陰にビニールシートを敷いて、4人でお弁当──私と奈緒が一緒に作ったサンドイッチを食べた。
 牧原君にアメリカの話を聞きながら。奈緒と弘樹の惚気話を聞きながら。美味しい時間はあっという間で、食べ終わる頃には奈緒は照れて小さくなっていた。

「水着、持ってくれば良かったなぁ」
「あー……でも、ここ、海水浴場じゃないよ」
「俺は気にしないぞ」

 声のした方を見ると、弘樹は荷物を置いて、裸足になって、ズボンの裾を捲っていた。

「足だけなら、大丈夫だ! 奈緒も来いよ!」
「でも……、うーん……いいや!」

 ためらっていた奈緒も、サンダルを脱いで飛び出して行った。こんな元気な奈緒を見るのは、久しぶりかもしれない。
 波打ち際で遊ぶ2人は、本当に幸せそうだった。

「夕菜ちゃんは行かないの?」

 前にもこんなことがあった気がした。初めて一緒に行った遊園地で、観覧車に乗った時だった。

「牧原君は?」
「僕は、夕菜ちゃんが笑ってくれれば何でもいい」
「……ずるいよ」
「もともと、夕菜ちゃんを元気付けるための旅行だから」
「そっか……。ありがとう。じゃ、行こう!」

 そして私と牧原君も、海の方へ駆け出した。

 どれだけ遊んだかはわからない。
 不安なこと、嫌なこと、悪いことは全部忘れて、楽しいことだけを考えて、みんなではしゃいだ。


 帰りは荷物が少なかった──競争に負けた弘樹が持ってくれていたから、私は牧原君にくっついて歩いた。
 ずっと一緒にいたかった。

「8月中は日本にいるから、また会えるよ」

 牧原君はそう言ってくれたけど、もちろん別れは辛い。
 9月になったらアメリカに行ってまた会えなくなるなんて、考えたくもない。

「ねぇ、牧原君、これからも──」

 まだまだ弘樹を諦められそうにないけど、もうしばらくは彼氏と思って、いいのかな。

 聞こうとしても、言葉は声にはならなくて。
 近くに奈緒と弘樹がいるから、大きい声では言えなくて。

「おーい、おまえら、荷物少ねぇのに早く歩けよー」

 前を歩く弘樹が振り返った。
 その隣では奈緒も一緒に笑っていた。

「先に行って、切符買っといてくれよー。あとで払うから」

 牧原君はそう言って、先行く弘樹を走らせた。奈緒も、弘樹を追って走って行った。

「今日はその話はやめよう。今度ゆっくり話そう」
「……うん」
「ほら、行こう」

 斜め前から手が伸びてきたから、私はそれを握ろうとした。

「握ったら、ダメだよ」

 意味がわからなくて手を引っこめようとしたら、

「こう。こっちの方が、良い」

 真っ昼間から襲ってくる人が、指を絡めて照れていた。
 ボールでゴツゴツしている手は、想像以上に大きくて、温かかった。
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