思い出は春風に、決意は胸に秘めて

瑞樹と美沙希


 ***


「副社長、そろそろよろしいでしょうか?」

 盛り上がる恋人たちの会話に、私は水を差した。こんな無粋なこと、やりたくない。しかし、次のアポイントメントが迫っている。秘書として、私人の瑞樹ではなく公人の副社長を優先した。

「おっと、いけない! のんびりしていた。ごめんね、美沙希さん。業務に戻るよ」
「あー、そうね、私こそ突然呼び止めてごめんなさい。もっと瑞樹と話したいけれど、仕事中だもんね。頑張ってきて!」
「ありがとう。あとでメッセージをいれるよ」

 ごくごく普通の恋人同士の言葉を交わし、ふたりは別れる。
 どこにでもある恋人たちの姿に、私は鼻奥がツンとする。さらに目の奥が熱くなって、仕事中だけど涙が浮かび上がりそうになった。
 瑞樹から、美沙希から気づかれないように、私は強く目を瞑り、必死になって涙の気配を消した。
 再び私の隣に瑞樹が並べば、美沙希と邂逅する前の会話が復活した。年度初頭の挨拶内容を再確認しながら、先方へ向かったのだった。
 一日の業務を終えて、帰宅する。今週のスケジュールは新年度の挨拶回りがメインであれば、副社長に夜の会食が入っても秘書の私には残業などない。本格的な業務開始は来週からとなる。
 ひとり缶酎ハイを開けて、作り置きのおかずを並べた。録画してあった自社業界のビジネス特番をみながら、夕食をはじめた。
 ちびちびと缶酎ハイを飲み、ぼんやりと昼間の美沙希のことを思い出していた。

 美沙希は先月末に、勤務先を退職した。瑞樹との結婚が決まって、年度末に寿退社したのだ。
 いまどき寿退社が存在するのも驚きだが、結婚相手が会社役員で、その両親から将来に備えて退職を求められたとなれば従うだろう、普通は。夫はグループ会社の創業者一族なのだ、ふたりの結婚生活に経済的な問題などない。
 さらに瑞樹は、今でこそ副社長だが、現社長の任期終了後には代表取締役社長に昇格する。
 そう、美沙希は近い将来、副社長夫人から社長夫人へとなるのだ。
 社長夫人ともなれば、副社長夫人と比べて要求されるものが多い。妻として夫に貢献するために、現在、美沙希は会長夫人の元へ行儀見習いに通っている。寿退社をしなくてはならない充分な理由となっていた。
 
 事故救護がきっかけで御曹司との結婚が決まる――こんな美沙希の出来事はまるで現代のシンデレラ・ストーリーだ。
 秘書として誰よりも瑞樹と長く接していた私は、この一年間、今まで以上に私情を消して秘書業務に集中した。
 でも、もうそれも限界である。
 今日のようなふたりの姿をみせられて、具体的な結婚式の話題が耳に入ってしまえば、冷静に振る舞い続ける自信がない。
 私に話しかけていたあの声が、私でない女性にかけられる。大好きなあの落ち着いた瑞樹の声が、美沙希さんと呼ぶのだ。三琴ではないのだ。
 婚約段階でも頻繫に美沙希の陰に悩まされていた。結婚してしまえば、それは毎日のこととなる。

 瑞樹が記憶をなくした転落事故からこっち、秘書業務に集中するといっても、ふとした弾みに私は事故前のことを思い出していた。
 そんな感傷が、今また私に襲い掛かってきた。

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