思い出は春風に、決意は胸に秘めて
瑞樹と三琴
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――三琴、今日の会食は、気が乗らないなぁ~
――瑞樹さん、そうはいっても来月末までは我慢してください。再来月になれば、あそこの担当が変わりますので。
取引先との懇親会へ向かう前に、瑞樹が渋る。なかなか執務室前室を出ていこうとしない。すでに社用車が階下で待機しているというのに。
執務エリアにふたりきりのときは、こんなふうに瑞樹は仕事の不満を私に漏らしていた。
――はいはい、仰せのままに。でも三琴、先にご褒美ちょうだい!
――?
そういって瑞樹は秘書用のデスクを回り、私の隣にやってきた。事務椅子に座る私を椅子ごと回転させて、自分のほうに向ける。
座ったまま瑞樹を見上げることになれば、自分を見下ろす自信満々のできる副社長の顔があった。
虚を突かれた私をみて、きっと私は間抜けな顔だったのだろう、瑞樹はくすりと微笑んだ。そのまま中腰となって、軽く私にキスをする。唇は避けて、頬に。
――み、瑞樹さん?
――無事、仕事して帰ってきたら、もっとご褒美がほしい。
――み、瑞樹さん!
業務中のキスに、私は焦る。
なぜ、頬にキスをしたのか? それは、ルージュをつけたまま会食にはいけないから。
そして、もっとご褒美がほしいの意味は……とても簡単な”なぞなぞ”だ。
瑞樹は両手で椅子の背を掴み、赤面する私を椅子に閉じ込める。甘い包囲網を施して、瑞樹は私の耳元でささやいた。
――今度の日曜日、挨拶にいこう。予定を空けておいて。
――え、挨拶? 誰に?
――僕の親に。会長夫妻でなく僕の両親に、挨拶にいくぞ!
そう、瑞樹が記憶をなくした日、私は彼のご両親の元へ、彼との結婚の挨拶にいく予定であったのだった。
当日の朝、副社長の元に急ぎの別件が入った。予定を変更して、昼から会長宅へいくことになる。
待ち合わせのカフェに少し早めについた私は、本を読んで待っていた。好きな作家の電子書籍であったのだが、数時間後にお会いする会長夫妻に、普段の秘書業務ではお馴染みであるはずの会長夫妻に、なんといって挨拶すればいいのだろう、緊張して書籍の内容など頭に入らない。
なら挨拶文句を考えればいいものの、そうではなくて今までの極秘交際のことを思い返していた。
瑞樹の秘書となって、五年目。部長時代の瑞樹のときに配属されて、本部長、副社長と彼が昇格していってもずっと配属は変わらず、一緒に仕事をすることができた。
創業家一族の次男に生まれた瑞樹は、将来はグループの中核会社社長に就くために会長夫妻からビジネス帝王学を施されていた。次男ではあるが、いわゆる御曹司には間違いない。兄とともにグループを盛り立てていってほしいという両親の希望に、瑞樹は存分に応えていた。
ルックスだって、瑞樹は御曹司よろしくで、とてもカッコいい。リーダーとして多方面に気を遣い、冷静に決断を下し、感情的にならず、まとめた案件は数多い。いつも爽やかな笑顔を振り撒いて、場を和ませていた。
彼に恋焦がれる女性陣がまとめた案件と同じくらい多いのも、御曹司のお約束であり証でもある。
絵に描いたような御曹司であれば、彼の近くで働く秘書の私はなにかと妬みの対象だった。
それゆえ、重々注意して、ストイックに秘書業務を行った。同時に、こうも考えていた。
副社長と自分では、住んでいる世界が違う。
こちらが素敵だと思っても、その想いが叶うことはないのだ。
だから恋愛感情をこじらせて、みっともないトラブルになることは絶対に回避しなくてはならない。
そう腹を括る。いつかは人事異動で瑞樹から離れることになるのだから、そのときまで誠心誠意で尽くそうと誓う。
転機がきたのは、瑞樹が本部長から副社長に昇格したときであった。
――松田さん、個人的なことを訊いていいですか?
――はい。差支えのない範囲ででしたら。
――松田さんには、現在お付き合いされている方がいますか?
この日から、”松田さん”だけだった私への呼びかけに”三琴”が加わった。
付き合いがはじまって、瑞樹は白状した。副社長になったら、想いを告げようと。
本部長程度では私に要らぬ誹謗中傷がかけられるだけだから、誰も文句のいえぬ地位になってから告白すると決めた。そう決めたものの、自分の告白までに三琴のほうに結婚話が持ち上がったらどうしようかと気が気でなかったともいう。
あまりにも夢のような展開で、今までの決意が揺らぐ。
でも、こうとも考えた。社長令嬢でもなければ社でもコネなし一般社員の私だ。副社長と結婚なんて、できるわけがない。今はこうやって告白してもらえて幸せだが、未来永劫それが続く保証はないと。
あれだけ用意周到に先のことを考える瑞樹であれば、私との結婚にメリットなどないと気がつくのは時間の問題である。また瑞樹は御曹司なんだから、きっと会長が御曹司という身分に相応しい縁談を用意するのも目にみえていた。
そう現状を分析すれば、瑞樹とのことは恋愛だと思うことにした。
瑞樹に縁談が持ち上がった暁には、速やかに身を引くと決める。その日がくるまでは、彼のそばにいてもいいのだと、自分に言い聞かした。
こうして将来の別離を覚悟して、秘密の交際がはじまったのだった。
転落事故の日、会長夫妻挨拶のために私はカフェで待っていた。
ずっと待っていた。
今まで瑞樹とは極秘交際を続けていたが、それも今日でおしまいとなるのだと信じて。
しかし、時間になっても瑞樹は現れない。遅れるというメッセージも入らない。
瑞樹は副社長であれば、関係する案件は桁違いに多い。今朝だって、緊急の案件で挨拶の予定が変更となった。こんなこと、普段の業務では日常茶飯事だ。
三時間たっても瑞樹が現れないことに疲れてしまっても、彼のことを責める気持ちは起らなかった。本当によくあることなのだ。
明日の執務室で瑞樹の口からドタキャンの理由がきけるはずだと思い、私は帰宅したのだった。
そうしてその晩に、挨拶に伺うはずだった会長から電話が入った。瑞樹は転落事故に遭い、カフェに向かうどころか病院に運び込まれたのだと知ったのだった。
瑞樹は転落して記憶をなくした。私の顔をみて、瑞樹はいう。
――どちら様でしょうか?
病室で挨拶に伺う予定でしたと告げても、彼は困惑するのみだった。
ご両親へ秘書でなくあらためて婚約者として私を紹介するはずだった、そんなこと、ひとかけらも瑞樹は口にしない。
当日のことだけでなく、お付き合いをしていた一年間の記憶も消えていた。恋人であったことだけでなく、秘書のことも忘れてしまっていたのだ。
ここで本当のことを話してもよかったのだが、弱り果てた瑞樹を洗脳するようで、できなかった。息子の事故に動転する会長夫妻に告げる内容でもない。
担当医師だって記憶喪失は短期間のことだからと、今は安静を心掛けるよう指導された。
とにかく瑞樹の負担にならないように、私は業務補佐に今まで以上に集中した。それを認めて瑞樹は何度も謝意を口にする。
――いえ、私はあなたの秘書ですから。
半分真実で半分噓のセリフを、私は返したのだった。