悪役を買って出た令嬢の、賑やかで切なくて運命的な長い夜のお話
その夜、クマール伯爵の帰りが遅くなると知っていたエバは、手紙を朝一番に王子の元に届けて欲しいと執事に頼んだ。
 今夜母は外に作った愛人の元へと出掛けていて不在だ。
 家庭をかえりみない父に、それにとっくの昔に愛想を尽かした母。家門とお金だけで繋ぎ留められた形だけの家族だった。
 逆に別れが酷く辛くなるような両親が居なくて良かったと、エバは神に感謝をした。
 明日の朝、王子がエバの手紙を読む頃には少なくとも屋敷から姿を消していないといけない。
 いつも通りに夕食時には幼い頃から慣れ親しんだ料理に舌づつみを打ち、湯浴みで丁寧に体を洗ってもらう。
 髪を乾かしてもらい保湿のオイルをたっぷり塗りこまれ、清潔で柔らかな寝巻きを着せて貰った。
「ありがとう。私、今夜は早く休むわ」
「わかりました。今夜は春にしては珍しく少し肌寒いので、寝具を一枚足してあります。足りないようでしたら、いつでもお呼び下さい」
 窓に目をやると、暗闇の中で屋敷の敷地に植えられた木々が、風の吹く方向を合わせて揺れている。
 夜空には満月が浮かび、流れる雲にくっきりと陰影をつけている。
「……まるで小さな嵐ね」
 エバの呟きに、侍女も視線を窓にやる。
「そうですね。この春の強い風に沢山の命が乗って、遠くまで運ばれていくと……子供の頃に物語の本で読んだ事があるのを思い出します」
 春風の背中に色々な生き物の命の種がしがみつく。植物、動物、それこそ何でもだ。
 山間の国、海辺の国、黄金の麦の国。命の種は気に入った場所で風の背中から手を離し、星が瞬くようにキラキラと落ちていく。
 そうしてたどり着いた場所で命の根を張って生きていく。
「素敵な話しね。私はまだ読んだ事が無いお話だわ」
「確か、この本は谷の国出身の方が書いたものでした。不思議なお話で印象に残っていたので調べたんです」 
「谷の国……」
 久しぶりにその名前を聞いて、足首に残る古い傷跡がつきりと痛んだ気がした。
 
 
 『谷の国』とはイーベルアル国の通称のようなもので、カナン帝国とは国ひとつ挟んだ所にあり、深い谷の中に王都を構える不思議な造りの国だ。
 昔、天に住まわす雷の神が稲妻を落とし造られたとされていて、通常では考えられない神秘的な現象が起きるという触れ込みで昔から観光業で栄えている。
 攻め込まれたらひとたまりもない地形であったが、これまで一度もそんな目には合った事がない。
 また、条件が合えば大きな虹が二本同時に掛かる光景から、本当に神が造られた加護が与えられた国なのかもしれないと思わせた。
 イーベルアルの国民は皆、ついこちらが目や意識を引き付けられてしまう特徴をそれぞれ容姿や技術として持っていた。
 プラチナのような銀の髪、美しい肉食獣に似たしなやかな体、うっとりと聞き惚れてしまう天上の音楽を奏でる指先……。
 神が造られた国に昔から暮らす人間は、皆、神の子の子孫と噂されるほど多才だ。
 エバは子供の頃に、父に連れられイーベルアル国に来た事がある。
 そこで、人攫いに合いそうになっていた子供を助けた。
 エバは無我夢中で叫びながら人攫いに噛みついて、足をナイフで斬られた。
 すぐ大人達が駆けつけて人攫いを取り押さえたが、エバは斬られたショックで気を失ってしまった。
 助けた子供はエバに縋り付き必死に何か言っていたけれど、エバにはもう何も聞こえなかった。
 三日三晩熱を出し寝込み、目覚めた朝。
 エバの足は生涯走る事が出来なくなってしまったが、栗色だった瞳はエメラルドの煌めく色に変わっていたのだ。
 懐かしい思い出に触れながら、あの頃から自分の行動は極端なのだと再確認した。
 けれど、それを後悔した事は決して無い。
 侍女が部屋を出てから、エバは自分のジュエリーボックスから、祖母の形見を除いた宝石を小袋に詰め始めた。
 しばらくの宿代くらいの金貨は手元にあったので、宝石は困った時に買い取って貰うのだ。
 それから衣装部屋から手持ちの普段着のドレスの中で一番地味な、乗馬を習った時に一度だけ着た動きやすいドレスを引っ張り出した。
 
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