皇妃エトワールは離婚したい~なのに冷酷皇帝陛下に一途に求愛されています~
0章 運命の日
王都の端にある貴族の館、その一室。
皇妃エトワール・ララ・シュテルフェンは、両手首を後ろ手に拘束され、柱に繋がれていた。
連れてこられた時に使われた眠り薬のせいで、うまく足に力が入らない。最近いるとわかったばかりの腹の子になにかあったらどうしようかと、そればかりが心配だった。
強大な魔力を持ち、魔法に秀でたエトワールだが、先ほどからなぜか魔法も使えない。
「こんなにわかりやすい弱点があるんだから、狙われて当然ですよ。ねえ、皇妃様」
肉づきのいい男がエトワールに言う。バッハマン侯爵家の現当主だ。バッハマン侯爵は、エトワールを餌に、アルフレートにひとりで来るようにと書状を出したらしい。
五年前に前皇帝を弑逆し皇帝となり、以降周辺諸国との融和と民衆のための国政改革を強行してきた、現皇帝アルフレート・シュテルフェン。
前皇帝に優遇されていた高位貴族たちが民衆を扇動して反乱を起こしたのは、二カ月前のことだ。混乱する皇城から、悪阻で思うように動くことができないエトワールを攫うのは簡単なことだっただろう。
エトワールは唇を噛んで俯く。
「……アルは来ないわ」
嘘だった。
ユーヴェリー王国から、敗戦国の王女として人質となるために嫁いでいたエトワールだが、今ではアルフレートと愛し合っている。無茶をしてでも来ないはずがない。
「あはは! 皇妃様は本当にそう思っておいでですか」
エトワールはなにも言い返すことができなかった。
やがて、無情にもひとり分の足音が廊下から聞こえてくる。ノックもなく開けられた扉の音に顔を上げると、そこには見慣れた黒髪があった。
「アル……」
アルフレートは、縛られ床に座り込んでいるエトワールを見て歯を食いしばる。
「──どうして……どうして来てしまったの……?」
エトワールの口から悲壮な声が漏れた。
アルフレートは愚かではない。今皇城を空けることの問題性も、用意された場所に丸腰で行くことの危険性も、理解しているに決まっているのに。
「エトワール、ごめん」
扉が音を立てて閉まる。剣を抜いた兵士たちが、一斉にアルフレートに斬りかかった。
武器を持っていないアルフレートは、攻撃を躱し素手で周囲の敵を打ち倒しながらこちらに近付こうとしている。
アルフレートの指先に魔法の光が灯ったが、うまく使えなかったようですぐに消えてしまった。それでもアルフレートは立ち止まらず、意識を失い倒れている兵士が持っていた剣を拾う。
形勢逆転かと思われたその時、エトワールが地面に押しつけられた。
アルフレートの動きが止まる。
「……エトワールを離せ」
バッハマン侯爵はエトワールを見下ろして、にやりと口角を上げた。
「陛下、お約束が違いますよ。早く剣を捨ててください」
「やめて、アル! ダメ、お願い……っ!!」
ごめん、と呟いたアルフレートが手放した剣が、床に当たって乾いた音を立てる。瞬間、扉を突き破って飛んできた氷の刃が、アルフレートの頸動脈を切り裂いた。
首から吹き出す赤い血が、エトワールの視界を覆い尽くす。
冷たい床に、誰より愛しい人の体が頽れていく。
「──あ、あああ、あ」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
「アル、アル。どうし──」
言葉が途切れたのは腹の熱さ故だった。見下ろすと、エトワールの腹から銀色に輝く剣が生えている。
「嫌……いやああああああああっ!」
剣が振り抜かれ、エトワールの腹が切り裂かれた。奇しくもその刃は、手首を繋ぐ縄をも切っていた。力の入らない体が、アルフレートの上に折り重なって倒れる。
まだ温かかった。
綺麗な顔には傷がないのに、光を失ったアルフレートの瞳はもうエトワールを映さない。
どうして愛してしまったのだろう。愛されたいと願ってしまったのだろう。エトワールがアルフレートに愛されていなければ、きっとアルフレートはここには来なかったのに。
「……ごめん、なさ──……」
荒い呼吸と共に、エトワールの口からごぽりと血が溢れていく。
閉じた瞼の裏は血よりも赤い深紅だ。
ぽたり、ぽたりと、黒い滴が落ちていく。
すべてが黒に染まった時、エトワールの命の火は消えた。
この二年後、シュテルフェン皇国は連合国軍に攻め込まれて滅びることになる。
しかしこの場で命を落としたエトワールとアルフレートは、それを知る由もなかった。
皇妃エトワール・ララ・シュテルフェンは、両手首を後ろ手に拘束され、柱に繋がれていた。
連れてこられた時に使われた眠り薬のせいで、うまく足に力が入らない。最近いるとわかったばかりの腹の子になにかあったらどうしようかと、そればかりが心配だった。
強大な魔力を持ち、魔法に秀でたエトワールだが、先ほどからなぜか魔法も使えない。
「こんなにわかりやすい弱点があるんだから、狙われて当然ですよ。ねえ、皇妃様」
肉づきのいい男がエトワールに言う。バッハマン侯爵家の現当主だ。バッハマン侯爵は、エトワールを餌に、アルフレートにひとりで来るようにと書状を出したらしい。
五年前に前皇帝を弑逆し皇帝となり、以降周辺諸国との融和と民衆のための国政改革を強行してきた、現皇帝アルフレート・シュテルフェン。
前皇帝に優遇されていた高位貴族たちが民衆を扇動して反乱を起こしたのは、二カ月前のことだ。混乱する皇城から、悪阻で思うように動くことができないエトワールを攫うのは簡単なことだっただろう。
エトワールは唇を噛んで俯く。
「……アルは来ないわ」
嘘だった。
ユーヴェリー王国から、敗戦国の王女として人質となるために嫁いでいたエトワールだが、今ではアルフレートと愛し合っている。無茶をしてでも来ないはずがない。
「あはは! 皇妃様は本当にそう思っておいでですか」
エトワールはなにも言い返すことができなかった。
やがて、無情にもひとり分の足音が廊下から聞こえてくる。ノックもなく開けられた扉の音に顔を上げると、そこには見慣れた黒髪があった。
「アル……」
アルフレートは、縛られ床に座り込んでいるエトワールを見て歯を食いしばる。
「──どうして……どうして来てしまったの……?」
エトワールの口から悲壮な声が漏れた。
アルフレートは愚かではない。今皇城を空けることの問題性も、用意された場所に丸腰で行くことの危険性も、理解しているに決まっているのに。
「エトワール、ごめん」
扉が音を立てて閉まる。剣を抜いた兵士たちが、一斉にアルフレートに斬りかかった。
武器を持っていないアルフレートは、攻撃を躱し素手で周囲の敵を打ち倒しながらこちらに近付こうとしている。
アルフレートの指先に魔法の光が灯ったが、うまく使えなかったようですぐに消えてしまった。それでもアルフレートは立ち止まらず、意識を失い倒れている兵士が持っていた剣を拾う。
形勢逆転かと思われたその時、エトワールが地面に押しつけられた。
アルフレートの動きが止まる。
「……エトワールを離せ」
バッハマン侯爵はエトワールを見下ろして、にやりと口角を上げた。
「陛下、お約束が違いますよ。早く剣を捨ててください」
「やめて、アル! ダメ、お願い……っ!!」
ごめん、と呟いたアルフレートが手放した剣が、床に当たって乾いた音を立てる。瞬間、扉を突き破って飛んできた氷の刃が、アルフレートの頸動脈を切り裂いた。
首から吹き出す赤い血が、エトワールの視界を覆い尽くす。
冷たい床に、誰より愛しい人の体が頽れていく。
「──あ、あああ、あ」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
「アル、アル。どうし──」
言葉が途切れたのは腹の熱さ故だった。見下ろすと、エトワールの腹から銀色に輝く剣が生えている。
「嫌……いやああああああああっ!」
剣が振り抜かれ、エトワールの腹が切り裂かれた。奇しくもその刃は、手首を繋ぐ縄をも切っていた。力の入らない体が、アルフレートの上に折り重なって倒れる。
まだ温かかった。
綺麗な顔には傷がないのに、光を失ったアルフレートの瞳はもうエトワールを映さない。
どうして愛してしまったのだろう。愛されたいと願ってしまったのだろう。エトワールがアルフレートに愛されていなければ、きっとアルフレートはここには来なかったのに。
「……ごめん、なさ──……」
荒い呼吸と共に、エトワールの口からごぽりと血が溢れていく。
閉じた瞼の裏は血よりも赤い深紅だ。
ぽたり、ぽたりと、黒い滴が落ちていく。
すべてが黒に染まった時、エトワールの命の火は消えた。
この二年後、シュテルフェン皇国は連合国軍に攻め込まれて滅びることになる。
しかしこの場で命を落としたエトワールとアルフレートは、それを知る由もなかった。
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