皇妃エトワールは離婚したい~なのに冷酷皇帝陛下に一途に求愛されています~
一章 いつか見た姿
「──……様、起き……さ、ませ」
声が聞こえる。まるで水中で聞くような、くぐもった声だ。
少しずつはっきりとしてくるその声に導かれるように、エトワールの意識は勢いよく引き上げられた。
「皇妃様、起きてください。──エトワール様っ!」
名前を呼ばれ、エトワールは目を開ける。体中が酸素を求めていた。
「はぁ……っ、はっ、はぁ……っ。ごほっ」
「ちょ、ちょっとエトワール様? 大丈夫ですか!?」
乱れた呼吸を繰り返すエトワールを見て、誰かが駆け足でコップを取りに行く。
それが輿入れ時に唯一国を越えてついてきてくれた侍女であるレーネだと気付いて、少しずつ呼吸が落ち着いてきたエトワールは声をかけた。
「レーネ?」
呼ばれたレーネはコップをエトワールに渡して、顔を覗き込んでくる。その瞳には心配の色がありありと浮かんでいた。
「エトワール様、怖い夢でも見ましたか?」
「え?」
「それとも、やっぱり不安ですか?」
「不安……」
エトワールはついさっき腹を刺されて死んだ。死とはこんなにも残酷に強制的に未来を奪うものかと、絶望していたのだ。
そのはずなのに、どうしてか今、エトワールはレーネと会話をしている。この状況を不安と思うのは当然だ。しかしレーネは、エトワールが想像もしなかったことを口にした。
「そうですよね、あの皇帝陛下とこれから初めて肌を重ねられるのですものね。……お式で疲れていらっしゃるようでしたら、もうしばらくお休みになられます?」
エトワールはハッと顔を上げた。
「……初めて、肌を?」
「それはそうですよ、初夜ですから。え……本当に大丈夫ですか?」
驚くレーネにエトワールは頭を抱えた。
エトワールがアルフレートと結婚をしたのは三年前のはずだ。
確か、結婚披露宴を終えて皇妃に与えられた部屋に戻ったエトワールは、ソファーでうたた寝をしてしまったのだ。人質としての政略結婚でずっと緊張していたせいだろう。
思い出すほどにわけがわからなくなっていく。
だからといって、自分でも理解できていないことでレーネに心配をかけたくはない。
エトワールは作り慣れた微笑みを浮かべて頷いた。
「え、ええ。驚かせてごめんなさい」
「お風呂の支度ができましたが、いかがなさいますか? 体調がよろしくないようでしたら、今夜は陛下にお断りされてもよろしいかと存じますが──」
「そういうわけにはいかないわ。入りましょう」
浴室ならば、洗い終わればひとりになれるはずだ。
エトワールは疲労からか普段よりも重く感じる体で、皇妃用の浴室に移動した。いつも通り丁寧にレーネに体中を磨かれる。
「……少しゆっくり浸かっていてもいいかしら」
「構いませんよ。では私は、先に外の支度をして参ります」
レーネが浴室を出ていって、エトワールはようやくひとりになることに成功した。
エトワールは広い浴槽の中で、情報が多すぎて痛む頭を必死で働かせる。
今日が三年前ならば、エトワールの夫となったアルフレートは二十三歳だ。今より二年前、二十一歳でこのシュテルフェン皇国の皇帝となり、昨年、大陸で九年間続いた戦争を自国の勝利によって終わらせた若き英雄でもある。
そのシュテルフェン皇国に戦争で敗北した国のうちのひとつが、エトワールの母国であるユーヴェリー王国だ。
戦争後、シュテルフェン皇国はユーヴェリー王国に王の首も領土も求めなかった。
代わりにされた要求はふたつ。ひとつは、ユーヴェリー王国が潰れない程度の賠償金。そしてもうひとつが、和平の証としての婚姻政策だった。今年十八歳となったエトワール・ララ・ユーヴェリー──ユーヴェリー王国の王女であるエトワールが皇帝アルフレートのもとに嫁ぐことで、二国間の国交を正常化しようというものだ。
エトワールの魔法の才能は近隣諸国でも有名だった。
緩く波打つハニーブロンドの長い髪と、ピンクの花と緑の葉を閉じ込めたような不思議な瞳は、まるで幸福をもたらす春の精霊のよう。ユーヴェリー王国の輝石と謳われた美貌を持ち、王族の中でも最も魔力量が多く魔法に優れていたエトワールがその役目に選ばれるのは当然のことだった。
エトワールは王女として、条件をすぐに呑んだ。
つまりエトワールの役割は、ユーヴェリー王国が今後シュテルフェン皇国に戦争を仕掛けないようにするための人質だ。古くから繰り返し行われてきた婚姻外交だが、確かに効率はいい。子供ができてしまえば血が混ざり、簡単に切り捨てることができなくなる。
エトワールはこの結婚生活に、まったく期待を抱いていなかった。せめて不幸にはならないよう、気持ちを強く持ち続けようと覚悟して嫁いだのだ。
しかしアルフレートは歴史上の君主たちとは異なり、暴君でも愚かな夫でもなかった。
一度目の結婚生活では、家族としてエトワールを大切にし、皇妃として意思を尊重し、ひとりの女性として慈しんでくれた。エトワールは右も左もわからない場所で孤独と戦いながら、アルフレートの優しさを頼りに生きた。
当然のようにエトワールはアルフレートに恋をし、愛されたいと願うようになる。アルフレートもまた、その想いに答えてくれた。愛し愛される毎日は幸福で、どんなことが起こっても互いの力を支えに生きていけると、そう思い込んでいた。
「……あんな結末に繋がっているなんて思わなかったわ」
もしあの時妊娠していなかったら、エトワールは攫われなかっただろう。いや、そもそもアルフレートがエトワールを愛していなければ、攫われても助けに来なかったに違いない。
あの時、いつも輝いていたアルフレートのアイオライトの瞳が、光を失っていた。目の前で命を奪われたあの瞬間、世界が壊れるかと思った。
赤に染まる景色と絶望が、エトワールの心臓を握っている。
エトワールの目から涙が溢れた。今ならば、湯で流してしまえばきっと誰にも気付かれないはずだ。漏れ出る声を必死で押し殺して、エトワールは泣いた。
死にたくなかった。
死んでほしくなかったのに。
「私のせいだわ……アルひとりだけなら、きっとあれくらい倒せていたのよ」
エトワールがいたせいで、アルフレートは戦うことができなかった。エトワールに意識が向けられたから、部屋の外で作られた魔法の氷の刃にも気付かなかった。
全部全部全部、エトワールのせいだ。
浴室の外に声が漏れないように、エトワールは静かに泣いた。意思に反してぽろぽろと零れて止まらない涙の中で、レーネが今日は結婚式の日だと言っていたことをふと思い出す。
──時間が巻き戻る。
通常起こり得ない現象だが、特殊な条件下においてのみ発生しやすくなると、かつてユーヴェリー王国の禁書庫にあった本で読んだことがある。
ひとつは、王族の血。ひとつは、強い想い。そして、それを可能とする大きな『代償』。
代償がなにかはわからないが、本当にそんなことが起こるのかという驚きがエトワールの内を占めていた。
しかし靄がかかったようにはっきりとしない部分があるものの、エトワールの中には未来の記憶が残っている。ならば、認めないわけにはいかない。
困惑しながらも現状を受け入れると、次に浮かんだのは新たな希望だ。
「それなら、未来を変えることができる……?」
今はまだあの反乱は起こっていないし、アルフレートだって生きている。
いつの間にかエトワールの涙は止まっていた。
「そう、そうよ。たとえば……私が攫われてもアルが助けに来なければ」
まず攫われないようにするのは当然として、万一エトワールが攫われてしまっても、助けに来なければアルフレートが死ぬことはない。
それまで子供を作らなければ、失われるもうひとつの命もない。
ひとりきりで殺された方が、この国のためにも、エトワールにとっても、ずっといい。
エトワールは勢いよく顔を洗って、風呂を出た。
二度目の結婚生活では、アルフレートに愛されないよう生きていくことを決めて。
声が聞こえる。まるで水中で聞くような、くぐもった声だ。
少しずつはっきりとしてくるその声に導かれるように、エトワールの意識は勢いよく引き上げられた。
「皇妃様、起きてください。──エトワール様っ!」
名前を呼ばれ、エトワールは目を開ける。体中が酸素を求めていた。
「はぁ……っ、はっ、はぁ……っ。ごほっ」
「ちょ、ちょっとエトワール様? 大丈夫ですか!?」
乱れた呼吸を繰り返すエトワールを見て、誰かが駆け足でコップを取りに行く。
それが輿入れ時に唯一国を越えてついてきてくれた侍女であるレーネだと気付いて、少しずつ呼吸が落ち着いてきたエトワールは声をかけた。
「レーネ?」
呼ばれたレーネはコップをエトワールに渡して、顔を覗き込んでくる。その瞳には心配の色がありありと浮かんでいた。
「エトワール様、怖い夢でも見ましたか?」
「え?」
「それとも、やっぱり不安ですか?」
「不安……」
エトワールはついさっき腹を刺されて死んだ。死とはこんなにも残酷に強制的に未来を奪うものかと、絶望していたのだ。
そのはずなのに、どうしてか今、エトワールはレーネと会話をしている。この状況を不安と思うのは当然だ。しかしレーネは、エトワールが想像もしなかったことを口にした。
「そうですよね、あの皇帝陛下とこれから初めて肌を重ねられるのですものね。……お式で疲れていらっしゃるようでしたら、もうしばらくお休みになられます?」
エトワールはハッと顔を上げた。
「……初めて、肌を?」
「それはそうですよ、初夜ですから。え……本当に大丈夫ですか?」
驚くレーネにエトワールは頭を抱えた。
エトワールがアルフレートと結婚をしたのは三年前のはずだ。
確か、結婚披露宴を終えて皇妃に与えられた部屋に戻ったエトワールは、ソファーでうたた寝をしてしまったのだ。人質としての政略結婚でずっと緊張していたせいだろう。
思い出すほどにわけがわからなくなっていく。
だからといって、自分でも理解できていないことでレーネに心配をかけたくはない。
エトワールは作り慣れた微笑みを浮かべて頷いた。
「え、ええ。驚かせてごめんなさい」
「お風呂の支度ができましたが、いかがなさいますか? 体調がよろしくないようでしたら、今夜は陛下にお断りされてもよろしいかと存じますが──」
「そういうわけにはいかないわ。入りましょう」
浴室ならば、洗い終わればひとりになれるはずだ。
エトワールは疲労からか普段よりも重く感じる体で、皇妃用の浴室に移動した。いつも通り丁寧にレーネに体中を磨かれる。
「……少しゆっくり浸かっていてもいいかしら」
「構いませんよ。では私は、先に外の支度をして参ります」
レーネが浴室を出ていって、エトワールはようやくひとりになることに成功した。
エトワールは広い浴槽の中で、情報が多すぎて痛む頭を必死で働かせる。
今日が三年前ならば、エトワールの夫となったアルフレートは二十三歳だ。今より二年前、二十一歳でこのシュテルフェン皇国の皇帝となり、昨年、大陸で九年間続いた戦争を自国の勝利によって終わらせた若き英雄でもある。
そのシュテルフェン皇国に戦争で敗北した国のうちのひとつが、エトワールの母国であるユーヴェリー王国だ。
戦争後、シュテルフェン皇国はユーヴェリー王国に王の首も領土も求めなかった。
代わりにされた要求はふたつ。ひとつは、ユーヴェリー王国が潰れない程度の賠償金。そしてもうひとつが、和平の証としての婚姻政策だった。今年十八歳となったエトワール・ララ・ユーヴェリー──ユーヴェリー王国の王女であるエトワールが皇帝アルフレートのもとに嫁ぐことで、二国間の国交を正常化しようというものだ。
エトワールの魔法の才能は近隣諸国でも有名だった。
緩く波打つハニーブロンドの長い髪と、ピンクの花と緑の葉を閉じ込めたような不思議な瞳は、まるで幸福をもたらす春の精霊のよう。ユーヴェリー王国の輝石と謳われた美貌を持ち、王族の中でも最も魔力量が多く魔法に優れていたエトワールがその役目に選ばれるのは当然のことだった。
エトワールは王女として、条件をすぐに呑んだ。
つまりエトワールの役割は、ユーヴェリー王国が今後シュテルフェン皇国に戦争を仕掛けないようにするための人質だ。古くから繰り返し行われてきた婚姻外交だが、確かに効率はいい。子供ができてしまえば血が混ざり、簡単に切り捨てることができなくなる。
エトワールはこの結婚生活に、まったく期待を抱いていなかった。せめて不幸にはならないよう、気持ちを強く持ち続けようと覚悟して嫁いだのだ。
しかしアルフレートは歴史上の君主たちとは異なり、暴君でも愚かな夫でもなかった。
一度目の結婚生活では、家族としてエトワールを大切にし、皇妃として意思を尊重し、ひとりの女性として慈しんでくれた。エトワールは右も左もわからない場所で孤独と戦いながら、アルフレートの優しさを頼りに生きた。
当然のようにエトワールはアルフレートに恋をし、愛されたいと願うようになる。アルフレートもまた、その想いに答えてくれた。愛し愛される毎日は幸福で、どんなことが起こっても互いの力を支えに生きていけると、そう思い込んでいた。
「……あんな結末に繋がっているなんて思わなかったわ」
もしあの時妊娠していなかったら、エトワールは攫われなかっただろう。いや、そもそもアルフレートがエトワールを愛していなければ、攫われても助けに来なかったに違いない。
あの時、いつも輝いていたアルフレートのアイオライトの瞳が、光を失っていた。目の前で命を奪われたあの瞬間、世界が壊れるかと思った。
赤に染まる景色と絶望が、エトワールの心臓を握っている。
エトワールの目から涙が溢れた。今ならば、湯で流してしまえばきっと誰にも気付かれないはずだ。漏れ出る声を必死で押し殺して、エトワールは泣いた。
死にたくなかった。
死んでほしくなかったのに。
「私のせいだわ……アルひとりだけなら、きっとあれくらい倒せていたのよ」
エトワールがいたせいで、アルフレートは戦うことができなかった。エトワールに意識が向けられたから、部屋の外で作られた魔法の氷の刃にも気付かなかった。
全部全部全部、エトワールのせいだ。
浴室の外に声が漏れないように、エトワールは静かに泣いた。意思に反してぽろぽろと零れて止まらない涙の中で、レーネが今日は結婚式の日だと言っていたことをふと思い出す。
──時間が巻き戻る。
通常起こり得ない現象だが、特殊な条件下においてのみ発生しやすくなると、かつてユーヴェリー王国の禁書庫にあった本で読んだことがある。
ひとつは、王族の血。ひとつは、強い想い。そして、それを可能とする大きな『代償』。
代償がなにかはわからないが、本当にそんなことが起こるのかという驚きがエトワールの内を占めていた。
しかし靄がかかったようにはっきりとしない部分があるものの、エトワールの中には未来の記憶が残っている。ならば、認めないわけにはいかない。
困惑しながらも現状を受け入れると、次に浮かんだのは新たな希望だ。
「それなら、未来を変えることができる……?」
今はまだあの反乱は起こっていないし、アルフレートだって生きている。
いつの間にかエトワールの涙は止まっていた。
「そう、そうよ。たとえば……私が攫われてもアルが助けに来なければ」
まず攫われないようにするのは当然として、万一エトワールが攫われてしまっても、助けに来なければアルフレートが死ぬことはない。
それまで子供を作らなければ、失われるもうひとつの命もない。
ひとりきりで殺された方が、この国のためにも、エトワールにとっても、ずっといい。
エトワールは勢いよく顔を洗って、風呂を出た。
二度目の結婚生活では、アルフレートに愛されないよう生きていくことを決めて。