皇妃エトワールは離婚したい~なのに冷酷皇帝陛下に一途に求愛されています~
翌朝目覚めると、エトワールはアルフレートの腕の中にいた。
離れた場所で眠ったのにどうしてと思ったが、アルフレートはほとんど動いていないようだ。つまり、エトワール自身がアルフレートの体温を求めてここまでやってきたことになる。
「──……っ」
顔が熱くなっていく。
一度目の結婚生活、アルフレートとは毎晩共に眠っていた。
体は結婚したばかりでも、中にいるのは三年間アルフレートを愛し、愛されてきたエトワールだ。こうなってしまっても仕方がない。
エトワールは自分自身にそう言い聞かせて、アルフレートが眠っているうちに離れてしまおうと思った。気付かれなければ、なかったことと同じだ。
アルフレートがしっかり眠っているかを確認しようと、エトワールは少し上にある寝顔を見上げる。
薄布の天蓋の向こうから、爽やかな朝の日差しが差し込んでいる。柔らかな光の中、アルフレートはエトワールを抱きしめて眠っていた。穏やかな寝息がエトワールの前髪を揺らす。
幸福だ、と思った。
あの事件の前のアルフレートは張り詰めた表情が増えていて、あどけない寝顔など随分見ていなかったような気がする。
どうにも離れがたい。離れてアルフレートを起こしてしまうのも忍びない。
エトワールはその場に留まったまま、また目を閉じた。
温かい布団と腕に包まれていると、恐ろしい死の記憶が少し薄れるような気がする。それと同時に、改めて時間が巻き戻ったのだと強く実感させられた。
今度こそ、アルフレートを死なせない。
アルフレートの腕に包まれながら、エトワールは強く決意した。
事件までの経緯も、これから先三年間のことも、落ち着いて考えればしっかり思い出せるはずだ。それを活かして、今度は絶対にあんな未来になんてしない。
またアルフレートの寝顔を盗み見ようと視線を上げたエトワールは、青紫色の瞳がこちらを見下ろしていることに気付いて息を呑んだ。
いつの間に起きていたのだろう。細められた目が、柔らかく上がった口元が、アルフレートの厳しい印象を薄れさせる。寝乱れた髪のせいもあって、愛らしくすら見えた。
大きな手が、エトワールの髪を梳いていく。首筋に触れた硬い指先が皮膚を引っかく感触すら嬉しくて、エトワールはぼうっとアルフレートを見つめていた。
これでは、見蕩れているかのようだ。
「ふ……くくっ。おはよう、エトワール」
甘い声がエトワールの脳を揺さぶる。
この時間軸では、エトワールはまだアルフレートを恐れていないといけないのに、これでは台無しだ。思うようにいかない現実に歯がみしながら、エトワールは目を伏せる。
「お、はようございます……陛下」
名前で呼ぶことはできなかった。そんなことをして、縁が深くなってしまったら困る。
「アルフレートと呼んでほしいと言ったはずだが」
眉間に皺を寄せたアルフレートが、エトワールから手を離した。それを寂しく感じながら、エトワールはこれでいいのだと自分を納得させる。
「どうして私が、陛下を名前で呼ばなくてはならないんですの?」
「夫婦間で役職で呼び合う者の方が稀かと思うが」
「私と陛下は夫婦ですが、まだ互いのことを知りません。ほぼ他人ですわ」
言いすぎた、と思った時には、アルフレートはもう上半身を起こしていた。
胸元がはだけた夜着の隙間から、小さな古傷が覗く。その傷の理由を、かつての未来でエトワールはアルフレートから聞いた。
気怠げに夜着の乱れを直していたアルフレートが、ふと顔を上げた。アイオライトの瞳が朝日を受けて輝いて、エトワールをまっすぐに射貫いてくる。
「──君は、私のことが嫌いか?」
エトワールは叫び出したい気持ちでいっぱいになった。
そんなことはない。誰より好きで、好きで、仕方ない。今すぐ抱きしめて、キスをして、肌を重ねてしまいたい。
愛しているなんて言葉では足りないくらい、アルフレートの全部を求めている。
こんな衝動めいた強い感情に振り回されてはいけないのに。
エトワールは、アルフレートに愛されてはいけないのに。
「き……嫌い、です……っ!」
どうしてこんなことを言わなければいけないのだろう。
張り裂けそうに痛む胸を、エトワールは右手でギュッと押さえた。
アルフレートは伸ばしかけた手を落として、エトワールに背を向ける。
「そう、か。わかった。……それでも、侍医の診察だけは受けてくれ」
アルフレートが天蓋のカーテンを手で軽く持ち上げて寝台を出ていく。その姿が、うっすらとぼやけて見える。
エトワールは咄嗟にその背中を追いかけようとして俯いた。
きっと傷つけた。
アルフレートは寄り添ってくれようとしたのに。顔色の悪いエトワールを心配して、初夜でも手を出さずにただ優しく抱きしめて眠ってくれたのに。
優しさを受け取るばかりの自分が嫌になる。
なにもできないうちに扉が閉まり、寝室にはエトワールだけが残された。
* * *
アルフレートが自身の執務室の扉を開けると、皇帝付き補佐官のクラウス・ファラーが驚いたように目を見張った。
「あれ、陛下。今日は午後からかと思ってましたよ」
金髪碧眼の華やかな容姿が朝から眩しい。幼馴染みでもあるクラウスの問いに答えないまま、アルフレートは椅子に腰かけて執務机に向かった。
しかし今すぐ執務を始める気にはなれない。そもそも今日の午前の仕事がなくなるように、昨日までに充分対策をしてあった。そのため、急ぎで片付けなければならない仕事もない。
アルフレートは机に肘をつき、組んだ両手に額を当てて、深い溜息を吐き出した。
目を閉じるとどうしてもあの瞳を思い出す。光彩の上半分が花のピンク色、下半分が葉の緑色。太陽のようなハニーブロンドの髪を持つエトワールは、まるで春そのもののように暖かく美しかった。
「本当にどうしたんですか? あの美人な皇妃様といちゃいちゃしてたんでしょう?」
クラウスの言葉に、アルフレートは緩く首を横に振る。
「……なにもしていない」
「──……はい?」
「なにもなかったと言っている」
アルフレートは重ねて言った。クラウスはようやく理解したようで、持っていた書類を机に置いてぽかんとこちらを見ている。
「いや、どうしてですか!? 皇妃様だってお役目はわかっていらっしゃるでしょう。そういうところで我儘を仰るような方には見えませんでしたよ!」
クラウスが言うことは尤もだ。
アルフレートとて、昨夜、直前まではエトワールを抱くつもりでいた。皇帝と皇妃という立場上、それは当然のことだ。むしろ世継ぎのことを考えれば、なにもない方が問題なのだ。
アルフレートはごまかすように苦笑するしかない。
「早朝から儀式続きで疲れていたのだろう。国のしきたりというのは、女性のことを考えていないのではないか?」
「そんなこと言うの、陛下くらいですよ……」
クラウスが呆れたように溜息をつく。
だが、ではどうしたらよかったのか。
アルフレートにとって、エトワールの最初の印象は『かわいそうな娘』だった。
このシュテルフェン皇国は、長く周辺諸国と戦争をしていた。理由は、前皇帝であるアルフレートの父親が戦争を好いていたからに他ならない。
前皇帝の治世、シュテルフェン皇国はあまり裕福ではなかった。
政治に興味のない前皇帝がなにもせずにいたため、古くから国の中枢にいた高位貴族たちが自分たちに都合のいいように政治を行い、民衆を疲弊させた。
しかし前皇帝は強さには自信があり、周辺諸国の裕福な土地を求めて次々と戦争を仕掛けていった。国民の疲弊も不満も皇城には届かない。
いくつかの小国と少数民族を武力で圧倒しては併合し、やがて前皇帝はシュテルフェン皇国の隣国であるウィルテー王国に狙いを定めた。
前皇帝はウィルテー王国の兵士を買収し、ウィルテー王国内でシュテルフェン皇国の奴隷の子供を殺させた。子供には貴族の子弟らしき服を着せて、身ぎれいにさせておくという周到さだった。
これをウィルテー王国軍によるシュテルフェン皇国への宣戦布告だと言い、シュテルフェン皇国はウィルテー王国へと攻め込んだ。
しかし本来の目的は別だ。
前皇帝が欲したのは、ウィルテー王国と同盟を結んでいるユーヴェリー王国にある大陸最大の交易量を誇る港である。ウィルテー王国を狙えば確実にユーヴェリー王国が動くと踏んだのだ。
その目論み通り、ユーヴェリー王国はウィルテー王国との同盟を理由にシュテルフェン皇国に攻撃してきた。他にもまだ併合されていなかった少数民族や小さな国々が連合軍となって、シュテルフェン皇国の敵に回った。
前皇帝の想定よりも戦争は長引き、開戦から四年後、十七歳になったアルフレートは前皇帝の命令で将として前線に出るようになる。
後継であるアルフレートに戦場を経験させるため、そして皇族への国民の支持を盤石にするために、アルフレートは本来十八歳で成人とされるにもかかわらず、早めに成人の儀を行い戦争の只中に放り込まれた。
アルフレートは強かった。
幼い頃から叩き込まれた帝王学と地政学。礼儀作法や人心掌握術。家庭教師と繰り返した盤上遊戯。そばで見てきた父親の戦略。そして、握り続けた剣と研究した魔法。
そのすべてが血肉となり、アルフレートを戦場で生かした。
多くの命を奪い賞賛を受けるうち、気付けば軍神と呼ばれるようになっていた。
そして、制圧した地を自身の足で確認して回るたび、ユーヴェリー王国とウィルテー王国側の主張を耳にすることも増えた。
曰く、シュテルフェン皇国の皇帝が講話の席に顔を出さない。
曰く、大義のない略奪によって国民が傷ついている。
やがてアルフレートは、父親の皇帝としての振る舞いに疑問を抱くようになった。
シュテルフェン皇国のための戦争だと思っていたが、戦争が長引くにつれて、国内は疲弊しているように見える。アルフレートたちの戦果を喜ぶ民衆の声はどこか空虚で、同時に妄信的でもあった。
アルフレートは二十一歳の時、前皇帝であった父親を殺し、皇位を簒奪した。
当然、前皇帝派の高位貴族たちは激怒し、国内にも動揺は広がった。その怒りも反発も、戦場での功績を盾に撥(は)ね除けた。
そしてアルフレートは昨年、ようやく戦争を終わらせたのだ。
しかし、アルフレートの国内外での評判はひどいものだった。
敗戦国であるユーヴェリー王国とウィルテー王国ではまるで異形の者のように語られ、国内でも民衆は恐れを抱き、高位貴族たちからは強い反発を受けている。
そんな状況で、ユーヴェリー王国との間に取りつけた和平協定。
アルフレートにとって頼みの綱とも言えるそれは、アルフレートがユーヴェリー王国の王族から妻を取ることを定めていた。
前皇帝が欲しがっていた港を奪う気にはなれない。
しかし和平のためには敗戦国に戦意を完全に喪失させることが必要だ。賠償金を取って軍事資金を奪うことも有効だが、なにより身内が人質となることが最も効果がある。
アルフレートが指名したのは、ユーヴェリーの王族の中でも特に目立って魔力量が多く、魔法の才を持つという王女エトワールだ。国民からも愛される美姫だという評判だった。
エトワールの魔法がユーヴェリー王国の戦力となることを恐れたのも理由だったが、それだけではない。この政略結婚において重要なのは、エトワールがシュテルフェン皇国で幸福に生きることである。敵対したいわけではない。
互いに繁栄しない未来など、アルフレートにとってまったく無駄なものだ。
ユーヴェリー王国の王女であるエトワールは、きっと敵国の将であったアルフレートを恐れているだろう。それどころか、嫌われているかもしれない。結婚しろと言われて、すぐに気持ちが切り替えられるはずがない。
ならば、アルフレートとて慣れないが、精いっぱい甘やかして優しくして、自身を好きになってもらわなければならない。それこそがシュテルフェン皇国の平和の鍵になる。
家族愛というものをあまり知らずに育ったアルフレートは、自分は妻となった女性を絶対に大切にしようと決めていた。そうすれば円満な夫婦になり、子供は自分のような経験をせずに済むだろうとも思っていた。
そして二週間前にシュテルフェン皇国にやってきたエトワールは、昨日アルフレートと正式に結婚した。これまでに何度か儀式で顔を合わせてきたけれど、アルフレートを極度に恐れる様子はなく、安心していたのだが──。
「これまで随分肝の据わった王女だと思っていたが、昨夜はなにかにひどく怯えていた。あれではなにをしてもうまくいくものか」
アルフレートは昨夜のエトワールを思い出す。
アルフレートを目の前にしたエトワールが見せた感情は『恐怖』だった。それも、死に取り憑かれた者が戦場で見せる表情と同じものだ。
怖がられているとは思っていたが、まさか殺されるとでも思わせたのだろうか。
これまでそんな顔をしなかったからこそ、なぜ突然それほどまでに怯えだしたのかわからない。まさか、初夜が怖いだけであんな反応はしないだろう。
「え。皇妃様はそんなに陛下を怖がっていたんですか!?」
クラウスが目を丸くしている。
エトワールは嫁いできたその日から、ユーヴェリー王国から連れてきた唯一の侍女と共に、シュテルフェン皇国の皇城を探検していた。
自分の身は自分で守ることができるという時点で、護衛すら必要ない。
見たことのない美人が城内を歩いていると、エトワールを見かけた皇城勤務の者たちがにわかに色めき立っていたのを覚えている。
エトワールにとって、ここはかつての敵国の中心地だ。命の危険を感じるほどに恐ろしいのであれば、城内を歩き回ったりなどしない。
「ま、原因はわかりませんが、仲よくしてくださいよ」
「……わかっている」
アルフレートは眠気覚ましに濃く淹れてもらった紅茶を一気に飲み干して、執務机の抽斗を開けた。
離れた場所で眠ったのにどうしてと思ったが、アルフレートはほとんど動いていないようだ。つまり、エトワール自身がアルフレートの体温を求めてここまでやってきたことになる。
「──……っ」
顔が熱くなっていく。
一度目の結婚生活、アルフレートとは毎晩共に眠っていた。
体は結婚したばかりでも、中にいるのは三年間アルフレートを愛し、愛されてきたエトワールだ。こうなってしまっても仕方がない。
エトワールは自分自身にそう言い聞かせて、アルフレートが眠っているうちに離れてしまおうと思った。気付かれなければ、なかったことと同じだ。
アルフレートがしっかり眠っているかを確認しようと、エトワールは少し上にある寝顔を見上げる。
薄布の天蓋の向こうから、爽やかな朝の日差しが差し込んでいる。柔らかな光の中、アルフレートはエトワールを抱きしめて眠っていた。穏やかな寝息がエトワールの前髪を揺らす。
幸福だ、と思った。
あの事件の前のアルフレートは張り詰めた表情が増えていて、あどけない寝顔など随分見ていなかったような気がする。
どうにも離れがたい。離れてアルフレートを起こしてしまうのも忍びない。
エトワールはその場に留まったまま、また目を閉じた。
温かい布団と腕に包まれていると、恐ろしい死の記憶が少し薄れるような気がする。それと同時に、改めて時間が巻き戻ったのだと強く実感させられた。
今度こそ、アルフレートを死なせない。
アルフレートの腕に包まれながら、エトワールは強く決意した。
事件までの経緯も、これから先三年間のことも、落ち着いて考えればしっかり思い出せるはずだ。それを活かして、今度は絶対にあんな未来になんてしない。
またアルフレートの寝顔を盗み見ようと視線を上げたエトワールは、青紫色の瞳がこちらを見下ろしていることに気付いて息を呑んだ。
いつの間に起きていたのだろう。細められた目が、柔らかく上がった口元が、アルフレートの厳しい印象を薄れさせる。寝乱れた髪のせいもあって、愛らしくすら見えた。
大きな手が、エトワールの髪を梳いていく。首筋に触れた硬い指先が皮膚を引っかく感触すら嬉しくて、エトワールはぼうっとアルフレートを見つめていた。
これでは、見蕩れているかのようだ。
「ふ……くくっ。おはよう、エトワール」
甘い声がエトワールの脳を揺さぶる。
この時間軸では、エトワールはまだアルフレートを恐れていないといけないのに、これでは台無しだ。思うようにいかない現実に歯がみしながら、エトワールは目を伏せる。
「お、はようございます……陛下」
名前で呼ぶことはできなかった。そんなことをして、縁が深くなってしまったら困る。
「アルフレートと呼んでほしいと言ったはずだが」
眉間に皺を寄せたアルフレートが、エトワールから手を離した。それを寂しく感じながら、エトワールはこれでいいのだと自分を納得させる。
「どうして私が、陛下を名前で呼ばなくてはならないんですの?」
「夫婦間で役職で呼び合う者の方が稀かと思うが」
「私と陛下は夫婦ですが、まだ互いのことを知りません。ほぼ他人ですわ」
言いすぎた、と思った時には、アルフレートはもう上半身を起こしていた。
胸元がはだけた夜着の隙間から、小さな古傷が覗く。その傷の理由を、かつての未来でエトワールはアルフレートから聞いた。
気怠げに夜着の乱れを直していたアルフレートが、ふと顔を上げた。アイオライトの瞳が朝日を受けて輝いて、エトワールをまっすぐに射貫いてくる。
「──君は、私のことが嫌いか?」
エトワールは叫び出したい気持ちでいっぱいになった。
そんなことはない。誰より好きで、好きで、仕方ない。今すぐ抱きしめて、キスをして、肌を重ねてしまいたい。
愛しているなんて言葉では足りないくらい、アルフレートの全部を求めている。
こんな衝動めいた強い感情に振り回されてはいけないのに。
エトワールは、アルフレートに愛されてはいけないのに。
「き……嫌い、です……っ!」
どうしてこんなことを言わなければいけないのだろう。
張り裂けそうに痛む胸を、エトワールは右手でギュッと押さえた。
アルフレートは伸ばしかけた手を落として、エトワールに背を向ける。
「そう、か。わかった。……それでも、侍医の診察だけは受けてくれ」
アルフレートが天蓋のカーテンを手で軽く持ち上げて寝台を出ていく。その姿が、うっすらとぼやけて見える。
エトワールは咄嗟にその背中を追いかけようとして俯いた。
きっと傷つけた。
アルフレートは寄り添ってくれようとしたのに。顔色の悪いエトワールを心配して、初夜でも手を出さずにただ優しく抱きしめて眠ってくれたのに。
優しさを受け取るばかりの自分が嫌になる。
なにもできないうちに扉が閉まり、寝室にはエトワールだけが残された。
* * *
アルフレートが自身の執務室の扉を開けると、皇帝付き補佐官のクラウス・ファラーが驚いたように目を見張った。
「あれ、陛下。今日は午後からかと思ってましたよ」
金髪碧眼の華やかな容姿が朝から眩しい。幼馴染みでもあるクラウスの問いに答えないまま、アルフレートは椅子に腰かけて執務机に向かった。
しかし今すぐ執務を始める気にはなれない。そもそも今日の午前の仕事がなくなるように、昨日までに充分対策をしてあった。そのため、急ぎで片付けなければならない仕事もない。
アルフレートは机に肘をつき、組んだ両手に額を当てて、深い溜息を吐き出した。
目を閉じるとどうしてもあの瞳を思い出す。光彩の上半分が花のピンク色、下半分が葉の緑色。太陽のようなハニーブロンドの髪を持つエトワールは、まるで春そのもののように暖かく美しかった。
「本当にどうしたんですか? あの美人な皇妃様といちゃいちゃしてたんでしょう?」
クラウスの言葉に、アルフレートは緩く首を横に振る。
「……なにもしていない」
「──……はい?」
「なにもなかったと言っている」
アルフレートは重ねて言った。クラウスはようやく理解したようで、持っていた書類を机に置いてぽかんとこちらを見ている。
「いや、どうしてですか!? 皇妃様だってお役目はわかっていらっしゃるでしょう。そういうところで我儘を仰るような方には見えませんでしたよ!」
クラウスが言うことは尤もだ。
アルフレートとて、昨夜、直前まではエトワールを抱くつもりでいた。皇帝と皇妃という立場上、それは当然のことだ。むしろ世継ぎのことを考えれば、なにもない方が問題なのだ。
アルフレートはごまかすように苦笑するしかない。
「早朝から儀式続きで疲れていたのだろう。国のしきたりというのは、女性のことを考えていないのではないか?」
「そんなこと言うの、陛下くらいですよ……」
クラウスが呆れたように溜息をつく。
だが、ではどうしたらよかったのか。
アルフレートにとって、エトワールの最初の印象は『かわいそうな娘』だった。
このシュテルフェン皇国は、長く周辺諸国と戦争をしていた。理由は、前皇帝であるアルフレートの父親が戦争を好いていたからに他ならない。
前皇帝の治世、シュテルフェン皇国はあまり裕福ではなかった。
政治に興味のない前皇帝がなにもせずにいたため、古くから国の中枢にいた高位貴族たちが自分たちに都合のいいように政治を行い、民衆を疲弊させた。
しかし前皇帝は強さには自信があり、周辺諸国の裕福な土地を求めて次々と戦争を仕掛けていった。国民の疲弊も不満も皇城には届かない。
いくつかの小国と少数民族を武力で圧倒しては併合し、やがて前皇帝はシュテルフェン皇国の隣国であるウィルテー王国に狙いを定めた。
前皇帝はウィルテー王国の兵士を買収し、ウィルテー王国内でシュテルフェン皇国の奴隷の子供を殺させた。子供には貴族の子弟らしき服を着せて、身ぎれいにさせておくという周到さだった。
これをウィルテー王国軍によるシュテルフェン皇国への宣戦布告だと言い、シュテルフェン皇国はウィルテー王国へと攻め込んだ。
しかし本来の目的は別だ。
前皇帝が欲したのは、ウィルテー王国と同盟を結んでいるユーヴェリー王国にある大陸最大の交易量を誇る港である。ウィルテー王国を狙えば確実にユーヴェリー王国が動くと踏んだのだ。
その目論み通り、ユーヴェリー王国はウィルテー王国との同盟を理由にシュテルフェン皇国に攻撃してきた。他にもまだ併合されていなかった少数民族や小さな国々が連合軍となって、シュテルフェン皇国の敵に回った。
前皇帝の想定よりも戦争は長引き、開戦から四年後、十七歳になったアルフレートは前皇帝の命令で将として前線に出るようになる。
後継であるアルフレートに戦場を経験させるため、そして皇族への国民の支持を盤石にするために、アルフレートは本来十八歳で成人とされるにもかかわらず、早めに成人の儀を行い戦争の只中に放り込まれた。
アルフレートは強かった。
幼い頃から叩き込まれた帝王学と地政学。礼儀作法や人心掌握術。家庭教師と繰り返した盤上遊戯。そばで見てきた父親の戦略。そして、握り続けた剣と研究した魔法。
そのすべてが血肉となり、アルフレートを戦場で生かした。
多くの命を奪い賞賛を受けるうち、気付けば軍神と呼ばれるようになっていた。
そして、制圧した地を自身の足で確認して回るたび、ユーヴェリー王国とウィルテー王国側の主張を耳にすることも増えた。
曰く、シュテルフェン皇国の皇帝が講話の席に顔を出さない。
曰く、大義のない略奪によって国民が傷ついている。
やがてアルフレートは、父親の皇帝としての振る舞いに疑問を抱くようになった。
シュテルフェン皇国のための戦争だと思っていたが、戦争が長引くにつれて、国内は疲弊しているように見える。アルフレートたちの戦果を喜ぶ民衆の声はどこか空虚で、同時に妄信的でもあった。
アルフレートは二十一歳の時、前皇帝であった父親を殺し、皇位を簒奪した。
当然、前皇帝派の高位貴族たちは激怒し、国内にも動揺は広がった。その怒りも反発も、戦場での功績を盾に撥(は)ね除けた。
そしてアルフレートは昨年、ようやく戦争を終わらせたのだ。
しかし、アルフレートの国内外での評判はひどいものだった。
敗戦国であるユーヴェリー王国とウィルテー王国ではまるで異形の者のように語られ、国内でも民衆は恐れを抱き、高位貴族たちからは強い反発を受けている。
そんな状況で、ユーヴェリー王国との間に取りつけた和平協定。
アルフレートにとって頼みの綱とも言えるそれは、アルフレートがユーヴェリー王国の王族から妻を取ることを定めていた。
前皇帝が欲しがっていた港を奪う気にはなれない。
しかし和平のためには敗戦国に戦意を完全に喪失させることが必要だ。賠償金を取って軍事資金を奪うことも有効だが、なにより身内が人質となることが最も効果がある。
アルフレートが指名したのは、ユーヴェリーの王族の中でも特に目立って魔力量が多く、魔法の才を持つという王女エトワールだ。国民からも愛される美姫だという評判だった。
エトワールの魔法がユーヴェリー王国の戦力となることを恐れたのも理由だったが、それだけではない。この政略結婚において重要なのは、エトワールがシュテルフェン皇国で幸福に生きることである。敵対したいわけではない。
互いに繁栄しない未来など、アルフレートにとってまったく無駄なものだ。
ユーヴェリー王国の王女であるエトワールは、きっと敵国の将であったアルフレートを恐れているだろう。それどころか、嫌われているかもしれない。結婚しろと言われて、すぐに気持ちが切り替えられるはずがない。
ならば、アルフレートとて慣れないが、精いっぱい甘やかして優しくして、自身を好きになってもらわなければならない。それこそがシュテルフェン皇国の平和の鍵になる。
家族愛というものをあまり知らずに育ったアルフレートは、自分は妻となった女性を絶対に大切にしようと決めていた。そうすれば円満な夫婦になり、子供は自分のような経験をせずに済むだろうとも思っていた。
そして二週間前にシュテルフェン皇国にやってきたエトワールは、昨日アルフレートと正式に結婚した。これまでに何度か儀式で顔を合わせてきたけれど、アルフレートを極度に恐れる様子はなく、安心していたのだが──。
「これまで随分肝の据わった王女だと思っていたが、昨夜はなにかにひどく怯えていた。あれではなにをしてもうまくいくものか」
アルフレートは昨夜のエトワールを思い出す。
アルフレートを目の前にしたエトワールが見せた感情は『恐怖』だった。それも、死に取り憑かれた者が戦場で見せる表情と同じものだ。
怖がられているとは思っていたが、まさか殺されるとでも思わせたのだろうか。
これまでそんな顔をしなかったからこそ、なぜ突然それほどまでに怯えだしたのかわからない。まさか、初夜が怖いだけであんな反応はしないだろう。
「え。皇妃様はそんなに陛下を怖がっていたんですか!?」
クラウスが目を丸くしている。
エトワールは嫁いできたその日から、ユーヴェリー王国から連れてきた唯一の侍女と共に、シュテルフェン皇国の皇城を探検していた。
自分の身は自分で守ることができるという時点で、護衛すら必要ない。
見たことのない美人が城内を歩いていると、エトワールを見かけた皇城勤務の者たちがにわかに色めき立っていたのを覚えている。
エトワールにとって、ここはかつての敵国の中心地だ。命の危険を感じるほどに恐ろしいのであれば、城内を歩き回ったりなどしない。
「ま、原因はわかりませんが、仲よくしてくださいよ」
「……わかっている」
アルフレートは眠気覚ましに濃く淹れてもらった紅茶を一気に飲み干して、執務机の抽斗を開けた。