完璧からはほど遠い
 とにかく早くその場から離れたくてしょうがなかった。今見たのは何かの見間違い? ううん、成瀬さんって呼んでた。あの後ろ姿も見間違いなんかじゃない。

 残業は? 私の話したいことは聞く時間はないけど、高橋さんとご飯食べる時間はあったの? 二人きりで? だから夕飯もいらないって言ったの?

 途中足を絡ませて派手に地面に転んだ。膝が熱くて、酷くすりむいたんだなとぼんやり思う。周りの人たちが、哀れな視線で見てくるのをひしひしと感じた。それは勿論、私が転んだことに対してなのだが、その時の自分は違う風に受け取った。

 勘違いしない方がいいですよ、佐伯さんが辛い目に遭うだけです。高橋さんはそんなことを言っていた。私は心のどこかで勘違いしていたんだろうか。女に見られてない自覚はあったけど、でもきっとそれなりに距離は近くて、私が話したいといえばすぐに耳を傾けてくれる、それぐらいの関係であると自惚れていたんだ。高橋さんと揉めたとき、私を贔屓してしまったと笑っていた成瀬さんを見て、きっとどれだけ高橋さんが可愛くても靡かないんじゃないかって、どこかで楽観的に見ていたんだ。

 ゆっくり立ち上がる。やはり、膝はストッキングが派手に敗れて血が出ていた。そこに冬の冷たい風が当たってすーすーと寒気を誘う。持っていたビニール袋は何とか握っていたものの、コンビニで買ったお弁当は多分中でひっくり返っているだろう。

 とぼとぼと歩いた。沙織の家を目指して、ただ足を必死に動かした。

 しばらくたって沙織の家が見えてきた。私の住むとのろと似た、よくあるタイプのアパートだ。部屋は二階にあるので、のそりのそりと階段を上る。すると、ちょうど沙織が帰宅してきたタイミングと同じだったようだ。家の鍵を開けようとしているロングヘアの彼女の顔が見えて、目が合った。ニコリと笑う。

「お、ナイスタイミング! 私もやっと残業終わって」

 言いかけた沙織は、私の様子に気が付いた。言葉を止め、眉を顰めた。

「どうしたの。大和となんかあった? ちょっと、膝血が出てるじゃん」

 慌てたように言う沙織の顔を見た途端、私はぽろぽろと涙を零した。それまで何とか堪えてきた何かが一気にあふれ出したようだ。

 ぎょっとしたように目を丸くする。私はそのまま、大きな声で泣きながら、子供のように沙織の元へ駆け寄って行ったのだ。
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