完璧からはほど遠い
 目的の階に到着して降りる。のそのそと遅い足で部屋に向かった。そして今更緊張が増してくる。一体どういう風に切り出そうか、今から脳内シミュレーションを始めよう。しまったなあ、あまりこういう経験は豊富ではないのだ。

 盛大なため息をつきながら、見慣れたドアの前にたどり着いた。私は鞄の中を漁り鍵を探す。あれ、さっきしっかりしまったはずなんだけど、どこに行ったっけ。

 ガサゴソと鞄の中をひっくり返しているとき、突然背中から声がした。

「おかえり」

 びくっと体が跳ねる。驚きで振り返ると、成瀬さんがこちらに向かって歩いてくるところだった。

 ……え! 思ったより早いんですけど。まだシミュレーションしてないんですけど!

 慌てふためきながら混乱していると、手から鞄を落としそうになる。成瀬さんがタイミングよくそれをキャッチしてくれた。

「おっと、また落とすとこだったよ」

「す、すみません!」

「はい」

「ありがとうございます、早かったですね成瀬さん」

「うん、急ぐねって言ったでしょ」

 そう笑いかけてくれる成瀬さんは、いつも通りに見えた。ここ最近避けられていたとは思えないほど、普通に話してくれてる。でもそのいつも通りが、私にとっては辛くて悲しかった。

 笑顔を返せない。

 そんな私を見て、成瀬さんは困ったように視線を落とした。

「えーと、ご飯ありがとう」

「……いいえ」

「なかなか家にいなくてごめん。色々……考えてて」

 バツが悪そうに言う。そして話題を変えるように、彼はポケットを漁った。

「とりあえず入ろうか、寒いし。中でゆっくり話は聞くよ」

 取り出したそれを鍵穴に差し込んだ。私は返事すら返せないまま、ただ俯いて立っている。慣れ親しんだこのマンション、思い出がありすぎて辛い。

 多分、入るのは今日が最後になる。でも、言うんだ。ちゃんときっぱり終わらせなきゃいけないんだ。私は心の中で強く決意する。

 カチャリと鍵が開く音がした。そのまま彼が扉を開けた瞬間、この場にいるはずのない高い声が響きわたった。

「えー? 佐伯さんー??」

 二人ともびくっと体を固まらせた。
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