夜空へ虹の架け橋を

『どうしたの琴音。こんな朝早くに』

「ううん……ごめんね。なんだか声が聞きたくなって」


『そっか』という乾いた返事と共に無言の時間が訪れると、いつものように結弦から話し始めてくれた。


『……琴音』

「なに?」

『海に行かないか?』

「いいけど、今から?」

『朝日が見たいんだ』


 電話していいかどうかも不安だったのに、またふたりきりになれるなんて。


「嬉しい……もちろん行きたい」

『じゃあ、今から部屋を出てきて』

「わかった。すぐに行くね」


 通話終了の表示をタップし、美輝が眠っていることを確認してからそっと障子を開けて部屋をあとにすると、既に結弦は部屋の前でわたしを待ってくれていた。

 皆が寝静まった館内をふたりで歩く。

 大きくて暖かい手をしっかりと握り返して、なるべく足音を立てないように旅館から抜け出した。

 坂道を下って海岸へ着くと、遠くの海からは朝日が顔を出し始めている。


「すてき……。ねえ結弦、きれいだね」


 太陽が徐々にその姿を現して、穏やかな日差しの温もりと共に今日を運んでくる。

 まるで世界の始まりみたいだ。

 結弦は眩しそうに目を細めて、その光景をじっと眺めていた。

 彼方ではなく、その瞳はしっかりとそこに輝く光を捉えている。

 やっぱり電話してよかった。

 こんな景色を結弦と見られるなんて、これ以上の贅沢はない。

 瞳に映る鮮やかな情景が、わたしの幸せを称えているみたいに思えて誇らしい。

 朝日に照らされてきらきらと白波が輝いている海。寄せては返す波の音に耳を澄ませていると、結弦が静かに「……本当にきれいだ」と呟いた。


「海から昇る朝日って、力強いね」

「琴音もあの朝日くらい、強くなれたかな?」

「わたしはあんなにも眩しく輝けないよ」


 旅行で色々なことを経験して以前よりも前向きになれたとは思うけれど、この朝日の輝きに比べるとわたしの変化なんてとてもちっぽけだ。でも、だからこそまだまだなんだってできるような、そんな気もする。

 しばらく黙って朝日を眺めていると、結弦がぽつりと言った。


「琴音にひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」


 結弦は太陽に負けないくらい、力強い眼差しを海に向けている。

 同時にその目には悲壮感が宿っているようにも思えてきて、わたしにはかける言葉も返す言葉も見つからなかった。


「この先どんなにつらいことがあっても、琴音は絶対に生きるのをやめないでくれ」

「え? ……それってどういうこと?」


 急にどうしたんだろう。

 でも結弦は真剣にわたしの答えを待っている。

 その瞳から想いの強さが伝わってくる。


「生きるって、約束してくれ」


 さっきよりも大きく、少し強い口調で結弦は言葉を口にする。

 戸惑いながらもわたしはその約束に応じた。


「も、もちろんだよ、死ぬわけないよ。わたしこんなに幸せなのに、みんなを残して死んじゃったりなんかしないよ」


 結弦は下唇を噛んで、徐々に空へと浮かび上がる太陽を睨みつけている。

 なにかあったのだろうか?

 その声と、交わした約束に、例えようのない不安を感じた。


「だったら結弦も約束してよ。わたしを残していなくなっちゃったりしたらいやだよ。ずっと一緒にいてね。一緒に生きて、わたしがおばあちゃんになっても、ずっとそばにいて……」


 声が震えていた。

 結弦の約束とは論点がずれているかもしれない。

 だけど、訊かずにはいられなかった。

 そんなわたしに、結弦はなにかを決意したようにはっきりと告げる。


「ごめん、その約束はできない……」


 頭の中が真っ白になる。

 今まで結弦がわたしを拒んだことなんてなかった。

 たまに困らせることはあったかもしれないけれど、最後には優しく笑いかけてくれていた。

 それなのに……。


「……どうして?」


 戸惑いが滲んで、微かに震える唇をなんとか動かして小さな声を絞り出すと、結弦は苦しそうに顔を歪ませて言った。


「未来は……どうなるかわからない」


 その言葉に、堪えていた涙が溢れ出した。


「わかるよ! わたしはずっと結弦が好き! わたしの気持ちはこれからも絶対変わらないよ! だから、そんなこと言わないでよ……」


 ここで泣いたら結弦に嫌われてしまう気がして怖かったけれど、流れてしまった涙は抑制が効かず、とめることができない。


「琴音が変わらなくても、未来の俺がどうなるかなんて、わからないだろ……」


 まるで鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。

< 169 / 193 >

この作品をシェア

pagetop