その涙が、やさしい雨に変わるまで
――瑞樹さん、あなた、何も知らないくせに!
 脩也兄さんとのことだって、僕は何も知らなかったさ!
 なぜ君は、兄とあんなに親密なのか? 三年前のたった一度のやり取りが、今もまだ、あんなにしっかりとした形で生きている。本当に、兄とはそれだけの関係なのか?
 三年前のことなら、記憶喪失になる前だ。事故のことはまったく無関係にして、あのふたりのことに自分はまったく気がついていなかったということか?

――瑞樹さん、あなた、何も知らないくせに!
 ああ、そうだ。僕は知らない。
 松田さんがサポートしてくれて、かなりのことはカバーできるようになった。でもそれは、すべての業務についてではない。まだ知らない案件が、ぬっと記憶の泥沼の底から現れてくる恐怖がある。
 そう、まだ知らない案件が……

(まだ知らない案件?)

 心の中で三琴に悪態をつきながら、ふと自分の言葉に振り返る。

(まだ知らない案件……)
(記憶が飛んで、それを必死になって再構築して一年、今やっと通年の会社行事をひととおりこなしたところだ。今後の社のイベントはそれの繰り返しであれば、もう記憶喪失による不手際は起こらないと思うのだが……)
(でも、まだ僕の知らないものが……あるのか?)

 議事録を頼りに欠如した記憶の復旧は、ほぼ完ぺきにできたと思っていた。実務に戻ってからの一年で、議事録から抜けた事項についても、記憶を再構築をして対応できるようにした。
 だが三琴の言葉で、まだ瑞樹の知らないことがあると示唆される。

(松田さん、君はまだ僕の知らないことを知っているのか?)
(もしあるとしたら、それは、何だ?)
(それがあるのならば、なぜ教えない?)

 本多を抜きにした三琴との対話は失敗した。ふたつあった確認事項はひとつしか、脩也のことしかできなかった。
 残りの確認事項については感情に揺さぶられて脱線し、切り出すことすらもできていない。
 そんな散々なヒアリングが終わって、後味の悪さだけでなく瑞樹の中に新たな謎を生んだ。

(僕の知らないことを、松田さんは知っている)

 ひとり残された副社長室前室で、瑞樹はまたため息をついた。
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