その涙が、やさしい雨に変わるまで
 瑞樹が恋人のときの呼称を口にしていることに気がついて、ふと三琴は思う。記憶が戻ったのかしらと。
 そんな切ない疑問と淡い願望が三琴の頭の中をかすめるが、これは瑞樹のパフォーマンスかもしれない。来週にも辞めていく社員のおふざけ(・・・・)に、最後だからと付き合っている上司を演じてくれているのかもしれない。

 瑞樹の「三琴」と呼ぶ声が、少し嬉しくて、少し苦くて、大いに寂しい。

 三琴との邂逅のあとで、瑞樹は自分の婚約者に向かって「美沙希」と呼ぶのだろうか?
 秘書で仕えていたときは、瑞樹は婚約者のことを「美沙希さん」と呼んでいた。人前ゆえに「さん」付けにし、呼び捨てにしない。
 しかしプライベートでは「美沙希」と呼んでいるんだろうなと思う。三琴にしたのと同じように。
 美沙希のことを思えば、つんと胸が痛む。
 横恋慕の感情は、厄介で、しつこくて、悩ましい。さらに罪悪感も加わって三琴を苦しませる。

「おいおい、餌はないよ」
 瑞樹も三琴の真似をして鯉に話しかける。そんな瑞樹の言葉に鯉は知らん顔で、期待したまま岸辺から離れていこうとはしない。
 ぴちゃんとまた鯉の跳ねる音がして、続いて連続する水音が響きだした。

「!」

 頭に冷たいものを感じる。水面をみれば、鯉が跳ねてできた波紋だけでなく小さな輪があちこちにできていた。いつ降り出しておかしくない天気であったが、ついに降ってきたのだ。
 雨を意識すると同時に、バラバラと大粒の雫が落ちてきた。

< 152 / 187 >

この作品をシェア

pagetop