その涙が、やさしい雨に変わるまで
 傘を持つ三琴の手を、乞われて瑞樹は一度離す。三琴が「代わりにお願いします」という感じで傘を差しだせば、素直に瑞樹は受け取った。
 瑞樹の持つ傘の下で、三琴は肩掛け鞄から菱刈の封筒を取り出した。

「こちらが、副社長が気にされていた『知らないこと』です」

 三琴がそう告げれば、一度に瑞樹の顔から甘さが消えた。業務ときの、厳しい姿勢の副社長が復活した。

(そうそう、その顔)
(納得のいかないものには、どこまでも追求していくという、この顔)
(これが、私が好きになった副社長よ!)

「先日ヨーロッパ事業所の方が帰国しましたが、その際に菱刈さんからお預かりしたものです。内容は非公開になっています。でも副社長はよくご存じのはず、私からの補足は必要ないと思います」

 自社の封筒を手にして、瑞樹の顔に疑問の色が浮かぶ。菱刈の名前がここで出てくるとは、そんな驚愕した顔でもある。またその「知らないこと」は三琴ではなく瑞樹のほうが詳しいなんて、これもおかしな話だ。
 瑞樹が落ち着いて考えれば、すぐにわかる。この「知らないこと」にはいろいろと辻褄の合わないことがあると。なぜなら、それは本当の「知らないこと」ではないから。
 そのことに瑞樹が気がつかないうちに、早く去らなければならない。三琴は迷わず、行動に出た。

 傘を持っているのは瑞樹。さらに封筒も手にしていれば、瑞樹は両手が塞がっている。菱刈の名に動揺もしていれば、今がチャンスだ。
「では、失礼します」
 三琴は軽く頭を下げて、えいっと傘の外へ踏み出した。
 途端に冷たい滴が全身を叩く。濡れることなど気にしない。紫陽花の植込みのすき間へ、駆け込んだ。

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