その涙が、やさしい雨に変わるまで
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「あ、いっけなーい! ちょっと両替にいってくる!」
セキュリティゲートを抜けてから搭乗口まで移動して、着いた途端に春奈が突拍子もなく叫んだ。
両替とは外貨両替なのだが、空港で交換なんてレートはかなり不利。だけど必要となれば文句はいえない。
「何だかね、裕介と一緒だと、お財布のこと、うっかり忘れちゃうんだよな~」
と、照れ笑いしながら春奈はそそくさといってしまう。
裕介の「こんな妻ですが、どうぞ春奈をよろしくお願いいたします」を早速体感した瞬間であった。
「搭乗開始まで時間があるから、俺もちょっと散歩してくるよ」
と、春奈だけでなく脩也もそんなことを三琴へ告げる。彼は彼でインスピレーションを求めて、空港内を散策したいという。
特別でない生活の中にこそ飛び切りの良いものがあるからねと、常に被写体を求める意欲旺盛なフォトグラファーの一面を脩也はみせた。
そんなふたりを見送って、三琴は搭乗口そばのベンチソファでひとり待機することにした。三十分もすれば、ふたりともここへ戻ってくる。席取りして待っていればいい。
十二時間のフライトだからと事前に海外ミステリー小説を買っておいた。それを鞄から取り出し、三琴は開いたのだった。
小説の導入部は、定番の「死体を転がせておけ」という古典的なものだった。シリーズもののお約束で、この本でも名探偵は行く先々で事件に遭遇する。実際には、こんな人、滅多にいない。だけどそこは小説、あえて不条理を楽しもう。
ふんふんと三琴はページを捲る。
あ、ここは……というところで、三琴に声がかかった。
「失礼します。お隣は、大丈夫でしょうか?」
「!」
三琴が文庫本から視線を上げれば、この搭乗口周りに搭乗客が増えていた。フライト時間が迫っていた。
「はい。どうぞ……」
慌てて手荷物を手元のほうに寄せる。隣人のスペースまで占領するような図々しい置き方ではなかったのだが、そこの認識は個人差がある。声の主は「ありがとうございます」と、遠慮なく隣に腰を下ろしたのだった。
名探偵は行く先々で事件に遭遇する。対して現実は、普通に生活していれば自分がそういう事態になることはないし、自分が名探偵本人になることもない。日常はごくごく普通で、波風立たずに過ぎていくものだ。
だが、ときに神様は偶然を使って、普段あり得ないことを演出する。
今がそうで、三琴はまじまじと隣の人物をみてしまった。