その涙が、やさしい雨に変わるまで

 ***


「あ、いっけなーい! ちょっと両替にいってくる!」
 セキュリティゲートを抜けてから搭乗口まで移動して、着いた途端に春奈が突拍子もなく叫んだ。
 両替とは外貨両替なのだが、空港で交換なんてレートはかなり不利。だけど必要となれば文句はいえない。
「何だかね、裕介と一緒だと、お財布のこと、うっかり忘れちゃうんだよな~」
と、照れ笑いしながら春奈はそそくさといってしまう。
 裕介の「こんな妻ですが、どうぞ春奈をよろしくお願いいたします」を早速体感した瞬間であった。

「搭乗開始まで時間があるから、俺もちょっと散歩してくるよ」
と、春奈だけでなく脩也もそんなことを三琴へ告げる。彼は彼でインスピレーションを求めて、空港内を散策したいという。
 特別でない生活の中にこそ飛び切りの良いものがあるからねと、常に被写体を求める意欲旺盛なフォトグラファーの一面を脩也はみせた。

 そんなふたりを見送って、三琴は搭乗口そばのベンチソファでひとり待機することにした。三十分もすれば、ふたりともここへ戻ってくる。席取りして待っていればいい。
 十二時間のフライトだからと事前に海外ミステリー小説を買っておいた。それを鞄から取り出し、三琴は開いたのだった。

 小説の導入部は、定番の「死体を転がせておけ」という古典的なものだった。シリーズもののお約束で、この本でも名探偵は行く先々で事件に遭遇する。実際には、こんな人、滅多にいない。だけどそこは小説、あえて不条理を楽しもう。
 ふんふんと三琴はページを捲る。
 あ、ここは……というところで、三琴に声がかかった。

「失礼します。お隣は、大丈夫でしょうか?」
「!」
 三琴が文庫本から視線を上げれば、この搭乗口周りに搭乗客が増えていた。フライト時間が迫っていた。
「はい。どうぞ……」
 慌てて手荷物を手元のほうに寄せる。隣人のスペースまで占領するような図々しい置き方ではなかったのだが、そこの認識は個人差がある。声の主は「ありがとうございます」と、遠慮なく隣に腰を下ろしたのだった。

 名探偵は行く先々で事件に遭遇する。対して現実は、普通に生活していれば自分がそういう事態になることはないし、自分が名探偵本人になることもない。日常はごくごく普通で、波風立たずに過ぎていくものだ。
 だが、ときに神様は偶然を使って、普段あり得ないことを演出する。
 今がそうで、三琴はまじまじと隣の人物をみてしまった。

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