その涙が、やさしい雨に変わるまで
 美沙希からは初夏に婚約解消を切り出された。その理由をきけば、女優に挑戦したいという。幼い頃からずっと女優になりたかったのだそうだ。
 女優という職業は、極めて実現が難しい職業である。親の大反対にあり、一度は堅実な職業としてナースについた。
 ナースとして働くことにやりがいはあったものの、やはり女優への夢をあきらめることができなくて、年齢の限界も迫ってくれば最後の挑戦をしたいと思い切ってナースを辞めたとのことだった。
 会社員になってからはナースのときよりもずっと自由時間が取れて、配役オーディションやタレントエージェント登録試験などに参加することができた。その最中に、美沙希は瑞樹の転落事故現場に遭遇したのである。

 スマートフォンのメッセージの文字をみて、ふと瑞樹は気がついた。
 「美沙希」と「三琴」――どちらも「み」ではじまっていて、音の響きはよく似ている。でも文字にしてしまえば、全然印象が違う。だから、間違えたのかもしれない。
 
 美沙希は命の恩人で、転落して入院していた際にも大変世話になっていれば、三琴とよく似た音の「みさき」という名前に安堵感を覚えて、彼女のことを手放すことができなったのだと瑞樹は思う。
 美沙希のほうも役者を目指して頑張っていたものの、芽が出ない。少々疲れていたところに瑞樹から求婚されて、彼女はこう考えることにした。
 女優そのものではないけれど、社長夫人は女優とよく似ていないかと。社長夫人が表に立って社を回している事業所があれば、形は違うけれど華やかなステージに自分も立てるかもしれないと。
 瑞樹は大会社の御曹司で、ルックスが良くて、性格も穏やかで人当たりがいい。話せば教養深く、女性に昭和的な価値観を求めたりしない。
 美沙希は恋愛至上主義を主張するような子供でもなければ、瑞樹は玉の輿以外の何でもなかった。大人の打算的なところもあるが、なんといっても瑞樹のことは嫌いではない。結婚する上での第一条件はクリアできている。
 そうして、瑞樹の求婚に美沙希は頷いたのだった。
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