その涙が、やさしい雨に変わるまで
 瑞樹としては、両親とうまくやっていってくれている思っていたのに、寝耳に水である。
 弁護士を交えるまでに、ふたりで何度も話し合った。三琴が秘書を辞めたいといわれたあとに、命の恩人でもある美沙希までもが自分の元から去ってしまう。当然あると思っていたものが、またもや消えていくのが辛かった。

 不安一色の婚約解消を渋る瑞樹に向かって、美沙希はこういった。

――瑞樹、あなた本当に私のこと、好き?
――あなたの「好き」は、転落事故の「助けて」っていうもので、それが今も続いていると思う。
――あなたはモテるし、人づきあいが多いから、ご両親に反対されてダメになった恋愛がたくさんあるでしょ。現に今だって、私じゃなくて、私の向こうの誰か別の人をみている感じがするわ。

 美沙希はいう、瑞樹の愛情は種類が違うのだと。自分の奥底に潜む『瑞樹』のことを、そう彼女は表現した。
 このときに瑞樹は、直感的に「そうか、僕は美沙希さんのことを愛していないんだ」と認めることができた。心から美沙希のことを愛しているわけではないのなら、そんな結婚は不幸になる。穏やかに、瑞樹は婚約解消を進めることができたのだった。

 『私の向こうの誰か別の人』が誰のことなのか、今ならわかる。それは三琴以外の誰でもない。三琴が秘書を辞めたいといわれたときの衝撃に比べたら、美沙希の婚約解消はそこまでショックではなかったから。
 これがはっきり確信できたときのは、紫陽花の庭で「松田さん」ではなく「三琴」という名前を口にのせたときだった。びっくりするくらい口が馴染んでいた。スムーズに「三琴」が出てくる。
 元婚約者には一度も「美沙希」と呼んだことはなかった。「美沙希さん」とは呼んでも「美沙希」とは、決して呼んでいなかった自分の姿にも気がついた瞬間であった。

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