その涙が、やさしい雨に変わるまで
 自分の「三琴」と呼ぶ声に、彼女は「瑞樹さん」と返してきた。
 腹の底に響く三琴の声がひどく懐かしく思えて、とても心地いい。狭い傘の中に閉じ込められて、こんなことがいつかどこかであったようなデジャ・ビュを呼び起こす。
 雨の中ふたりで身を寄せ合っていれば、胸がざわついて、彼女にキスしてしまった。雰囲気にのみ込まれてしまったといっても、否定しない。あのときはひどく三琴とキスしたかったのだ。
 だから、甘美なくちづけのあとに菱刈のことが出てきて、さらに三琴が「副社長」と他人行儀に呼ばれたら、無性に腹が立った。勝手な言いがかりを彼女にぶつけてしまった。

 一連の振る舞いの謎がはっきりしたのは、菱刈の寄こした新規案件を精査したときだった。
 企画は自分が副社長に就任したときからスタートしている。自分が立てたはずなのに、本当になにも瑞樹は覚えていなかった。

 それによると新事業スタート予定日は、現社長の小島が就任しているうちにとある。操業開始時のヨーロッパ現地のトップは瑞樹で、日本本部の代表取締役社長は小島となっていた。小島の引退後は瑞樹が代表の座に就くことになっているが、この企画書にそんな未来はない。

 ここから瑞樹は、小島に社長就任期間終了後も続投を希望し、自らは社長就任を辞退して日本を去るつもりでいたとわかる。
 創業家一族経営は長所もあれば短所もある。同族企業のよくないところを今後どう解決していけばいいのか、記憶をなくす前の瑞樹はいろいろ悩んでいたようだ。創業家一族だからこそ、自分はあえてグループ中核から距離を取ると考えていた。
 企画書の確認と合わせて、そんなことを菱刈にそれとなく訊いてみた。
 返ってきたのは、こんな呆れた菱刈の声だった。
 
――え、何いってんですか、黒澤くん! 両親の干渉から松田さんを守るために、彼女を連れて日本脱出するんだったんでしょ! そのためには社長の座を空席にしておくわけにはいかないし。それに現状、小島社長でうまく回っているから、なにもわざわざ変える必要もなければ、現場だって一族でなくとも努力次第では出世できるってほうが断然希望が持てるし。
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