その涙が、やさしい雨に変わるまで
恋人となったときに瑞樹は三琴に懇願した、兄脩也との連絡係になってほしいと。瑞樹自らが提案して、三琴と脩也の間のコンタクト・ラインを整えたのは瑞樹自身であった。
でもいま瑞樹は、「兄の連絡先を教えた覚えはない」と断言した。
本当に何も覚えていないのだと、瑞樹の記憶は何ひとつと戻っていないのだと、再度三琴は確信する。労われて湧き出た三琴の淡い喜びが、木っ端みじんとなった。
ショックを受けながらも、どう答えようかと三琴は記憶と言葉を探る。脩也のことと秘書業務が矛盾しない説明をひねり出さなくてはならない。併せて瑞樹が記憶を失っている時間軸も計算しなくてはならない。
瑞樹にとっても、脩也にとっても、美沙希にとっても、一番損害のない回答は、どれだろう。
必死になって三琴は考える。
誰にとっても都合のいい答えは、何?
思考するゆえに黙り込んだ三琴のことを、瑞樹は急かしたりはしない。彼も沈黙を守り、我慢強く三琴の答えを待っている。
夏至までもう一ヶ月とない五月末の夕方は、とても明るい。高層階フロアからは、なかなか暗くならない空が臨めた。
トワイライト色に染まる前室の中で、三琴は覚悟を決めた。徹底して誤魔化しにかかると。
「実は、かなり前のことになります。記憶が正しければ、三年ぐらい前になるかと」
そして、入室する前に決めたことを思い出す――いざ瑞樹と対面したなら懐かしさや嬉しさに流されないように、長すぎず短すぎずの会話にとどめて副社長室をお暇しよう。
再就職相談へ話を進めずに、退場を狙う。退室につながる話題とタイミングを探る。
しかし瑞樹のほうは、そんな三琴の気持ちなど知らない。
問い詰められて、やっとのことで思い出したといわんばかりに、三琴は口を開いた。この演技が瑞樹に通じることを、ひたすら願う。
「副社長がお留守のときに、脩也さんからお電話をいただいたことがあります。すぐに話が終わらず私も別件で席を外す時間が迫っていました。そのときに私の直通の連絡先をお教えしたかもしれません」
「三年前?」
「はい。まだ副社長は本部長だったかと……」
でもいま瑞樹は、「兄の連絡先を教えた覚えはない」と断言した。
本当に何も覚えていないのだと、瑞樹の記憶は何ひとつと戻っていないのだと、再度三琴は確信する。労われて湧き出た三琴の淡い喜びが、木っ端みじんとなった。
ショックを受けながらも、どう答えようかと三琴は記憶と言葉を探る。脩也のことと秘書業務が矛盾しない説明をひねり出さなくてはならない。併せて瑞樹が記憶を失っている時間軸も計算しなくてはならない。
瑞樹にとっても、脩也にとっても、美沙希にとっても、一番損害のない回答は、どれだろう。
必死になって三琴は考える。
誰にとっても都合のいい答えは、何?
思考するゆえに黙り込んだ三琴のことを、瑞樹は急かしたりはしない。彼も沈黙を守り、我慢強く三琴の答えを待っている。
夏至までもう一ヶ月とない五月末の夕方は、とても明るい。高層階フロアからは、なかなか暗くならない空が臨めた。
トワイライト色に染まる前室の中で、三琴は覚悟を決めた。徹底して誤魔化しにかかると。
「実は、かなり前のことになります。記憶が正しければ、三年ぐらい前になるかと」
そして、入室する前に決めたことを思い出す――いざ瑞樹と対面したなら懐かしさや嬉しさに流されないように、長すぎず短すぎずの会話にとどめて副社長室をお暇しよう。
再就職相談へ話を進めずに、退場を狙う。退室につながる話題とタイミングを探る。
しかし瑞樹のほうは、そんな三琴の気持ちなど知らない。
問い詰められて、やっとのことで思い出したといわんばかりに、三琴は口を開いた。この演技が瑞樹に通じることを、ひたすら願う。
「副社長がお留守のときに、脩也さんからお電話をいただいたことがあります。すぐに話が終わらず私も別件で席を外す時間が迫っていました。そのときに私の直通の連絡先をお教えしたかもしれません」
「三年前?」
「はい。まだ副社長は本部長だったかと……」