その涙が、やさしい雨に変わるまで
「はい。あの、お兄さまには申し訳ないのですが、あの日は身分証明が完全でなかったので門前払いのような対応になってしまいました。それゆえ、本多さんにもお伝えしていません」
 脩也には一切便宜を図ることができなかったという。結果として瑞樹から隠れてこそこそしたものになってしまったのだと、三琴は匂わせることができた。

 はぁ~と、瑞樹は大きく息をつく。連絡先交換が三年前のことならば、瑞樹も確信が持ちにくい。アポなし訪問の件だって、マニュアル対応を行っている。やましい点がない。
 これは困ったといわんばかりに、瑞樹は軽く目頭を押さえた。
 目の前で弱り果てる瑞樹をみてしまうと、三琴は思わず手を差し伸べたくなる。そうさせたのは、いまの自分の発言だとしても。
 その衝動をぐっとこらえ、三琴はこの前室に入る前に誓ったことを実行する。
 
――いざ瑞樹と対面したなら懐かしさや嬉しさに流されないようにして、長すぎず短すぎずの会話にとどめて副社長室をお暇するのよ!

「ご用件は、以上でしょうか?」
 できるだけ冷静を装って、三琴は無感情に確認を入れる。

――本当はもっと違うことを話したい。
――お薬、飲んでいますか? 容量を気にして、必要以上に我慢しないでくださいね。
――結婚したら、仕事の仕方は変えてくださいね。瑞樹さんは、ワーカホリックなんだから。

 タフな瑞樹であるが、いつまでもそうとは限らない。そこに記憶喪失の後遺症が加わって、偏頭痛持ちにもなった。
 年々、求められるものが厳しくなっていく瑞樹の地位を思えば、その補佐役を放棄して辞職する自分は薄情な女かもしれない。

 瑞樹から返事は戻ってこない。彼は彼なりに記憶を整理している最中なのだろう。これを沈黙を無言の了解と受け取って、三琴は退室しようとした。

「兄のことはそういうこととして、松田さん、まだ用件は終わっていないよ」

 くるりと踵を返した三琴に、瑞樹はストップをかけた。
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