その涙が、やさしい雨に変わるまで

8*瑞樹、再び葛藤する

――瑞樹さん、あなた、何も知らないくせに!

 三琴から投げつけられた言葉が、いつまでも耳に残っている。
 何も知らないとは、一体それは、どういうことだ?
 ひとり残された副社長室前室で、瑞樹は先までの三琴の会話を反芻していた。

 三琴を呼び出した理由は、脩也の連絡先のことと三琴の再就職先のこと。
 まず脩也のことから質問すれば、いかにもありそうなことを、よそよそしく三琴は回答してきた。一方で電話口での脩也の口ぶりでは、ふたりの間にそんな他人行儀は感じられなかった。
 明らかに三琴と脩也は単に面識があるだけではない。かといって、どこまで親密なのかはわからない。
 はっきりしない兄と三琴の距離に、三琴と対話することでますます瑞樹は落ち着かなくなったのだった。


 ††

 例のアルバイトのあった週末から数日後、瑞樹のもとに再び脩也から電話が入った。兄はご丁寧にアルバイトの報告をすると、こんな確認をしてきた。
 先の電話から時間が空いて不愉快な感情が薄れてきたころだったのに、これでまた瑞樹は気分を害す。兄の電話はいつもの軽い調子で普段通りで、だからなのか、かえって煽られているようで悶々とした得体の知れないものが胸に渦巻く。

――アルバイトの件では、松田ちゃん、仲間内では大好評だったよ。さすが、黒澤グループの役員秘書、完璧だった!
 そりゃそうだ、自分の秘書は完璧だ。だから、部長時代からずっと彼女を秘書に指名してきたのだ。
 
――それで、松田ちゃんからきいたのだけど、彼女、会社辞めるんだって?
 この兄のセリフからだと、先のアルバイト可能かどうかの電話のときには知らなかったようだ。
 辞職について、どちらが先に話題にしたのかはわからない。アルバイト中に世間話の流れに乗って出てきたことと思われた。

――もし、松田ちゃんの就職先が決まっていなければ、うちのスタッフとして雇いたいんだけど、いい?

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