ようこそ、むし屋へ ~深山ほたるの初恋物語編~
ひいじいじと幻田んぼアート その3
コンコン。
「ほたる、起きてる? 入るわよ」
布団に潜り込むのと同時に、部屋のドアが開いて電話の子機を持ったほたるの母が「あっくんから電話」と受話器を差し出してきた。
「篤?」
ほたるが子機を受け取っても、ほたるの母はニヤニヤしたまま動こうとしない。
「電話できないから出てって」
「はいはい、わかったわよ。今度遊びにおいでって、あっくんに言っといて」とほたるの母は意味不明なウィンクをして、やっと去って行った。
こほん、と、ほたるは小さく咳払いをする。緊張気味に「もしもし」と小さく言った。声がちょっとかすれた。
『……うす、あの、オレ、篤だけど』
電話越しの篤も、ちょっとぎこちない。
「うん」
『……今、ほたるの部屋?』
「うん」
『ほたる、双眼鏡とか持ってる?』
「双眼鏡?」
ほたるは机の引き出しの一番下を開いて「あるけど」と応えた。
真鍮製の双眼鏡。まだ幼稚園に通っている頃、ひいじいじからもらった宝物。辛い幼稚園を頑張ったほたるのご褒美に、ひいじいじは時々『探検』へ連れて行ってくれた。この双眼鏡は、その時のものだった。
『ほっちゃん隊長、本日はどこを探検するでありますか?』
ずしりと、ひっくり返りそうに重い双眼鏡を首からぶら下げたほたるが隊長で、ひいじいじは二等兵だった。二人で近くの林とか田んぼとか、いろいろ散策した。
あの頃は、ひいじいじも歩き回れたのに。
また涙がじわりと滲んでくる。と、再び受話器から篤の声がした。
『双眼鏡で窓から田んぼ見える? 通学路の方』
「ちょっと待って」
机の脇の小窓を開くと、早朝の冷たい風が入ってきた。双眼鏡を両目にあてる。空はまだ仄暗い。ピントを少しずつ調整していく。次第に視界がはっきりしてきた。
『見える?』
ランドセルを背負った小さな人影が手を振っている。篤だ。それから、紗良とももちゃんとさなえちゃんもいる。あと、もう一人、男子がいるみたいだけど。
「見えた」
『見えるって。せーの』
みんなが一斉に同じ田んぼを指差した。ところどころ狩り残しがある変な田んぼ……
「あ!」と、ほたるは目を見開いた。
[ほたる がっこう まてる]
『どう? 見えた? ちょっと待って。順番に変わ……』
誰かが篤の携帯電話をひったくり『もしもし』と電話の声が変わった。
「紗良?」
『ごめんね、ほたるちゃん。文字、間違えちゃった。【まってる】、の、小さい【つ】を、私が入れ忘れちゃったの』
背後でさなえちゃんが「紗良、今そこ重要じゃないから」とツッコミを入れている。
『もしもし、ほたるっち? あたしよん。ももちゃんだよん。学校で待ってるよん。って言ってもうちらクラス違うけどね』
かして、と、さなえちゃんがももちゃんから携帯を奪い取るのが見えた。
『ま、そういうことだから、気が向いたら学校来なよ。あたしは別に学校だけが人生じゃないと思ってるけど、世の中って案外面倒くさいからさ』
『あ、こんちは。オレ、大地っす。えっと、その。だから、あのですね』
『もう、あんたは黙ってて。ごめん、人手足りなくて呼んだだけだから』
わちゃわちゃしているみんなから携帯を取りあげ、篤が、うほんと咳払いをする。
『とにかく、オレらと、あと耕作さんも、ほたるを心配してるってことで』
「耕作さん?」
『この田んぼの持ち主。オレの死んだじいちゃんが通ってた、喫茶『ボブマーリー』のマスター。ほたるのこと話したら、蜻蛉さんのひ孫なら、ひと肌脱ぎましょうって、田んぼとか道具とか貸してくれたんだ。結局、稲刈りも手伝わされたけど。聞いてる?』
「……うん」
薄暗かった空に、赤みがさしはじめた。
『子供だったほっちゃんも広い世界に飛び出した』
ひいじいじ。
「待ってるからな、ほたる」
篤の、目の下のえくぼが見える気がした。
『ほっちゃん、禍福は糾える縄の如しじゃ』
「ありがとう、みんな」
双眼鏡越しに、友達が、ジャンプしながら両手を振ってくれていた。みんなの背中から希望に満ちた光がこぼれて、世界を明るく彩っていく。
これが、あたしの世界。
みんなが学校に行くのを見送って双眼鏡を外すと、夢で見たのとそっくりな黒トンボがすいーと、ほたるの目線を通過した。
「あ」
慌てて目で追ったけれど、見失ってしまった。きっと、ひいじいじがお別れに来てくれたんだと思った。
「さよなら。ありがとう、ひいじいじ」
まだ胸は痛むけれど、もうウジウジはしないよ。と心の中でひいじいじに話しかけた。
ひいじいじが会いたかった人は、ひいおばあちゃんかな。
着物姿ではにかむ目のクリッとした女の人の写真を思い出して(ひいじいじがアカネさんに会えますように)と、ほたるは祈った。
そういえば、あの写真を見せてもらったあと、ほたるはおばあちゃんに「ひいおばあちゃんはどんな人だった?」と尋ねたけれど「さあ」とおばあちゃんは首を傾げた。
「ひいおばあちゃんは、おばあちゃんを産んですぐに死んじゃったからよう知らんのよ。ひいじいじは綺麗な人だったって言ってたけどねぇ。ひいじいじもおばあちゃんも人並みの顔だし、写真もないから、実際のところわからんねぇ」
不思議なことに、アカネさんの写真をおばあちゃんは見たことがないようだった。
そういえばあの写真は、どこへ行ったんだろう。愛読書から若かりしひいじいじの写真を見つけたおばあちゃんは、アカネさんの写真については何も言っていなかった。
あとで、ひいじいじの本を見てみようかな、とほたるは思った。
「ほたる、起きてる? 入るわよ」
布団に潜り込むのと同時に、部屋のドアが開いて電話の子機を持ったほたるの母が「あっくんから電話」と受話器を差し出してきた。
「篤?」
ほたるが子機を受け取っても、ほたるの母はニヤニヤしたまま動こうとしない。
「電話できないから出てって」
「はいはい、わかったわよ。今度遊びにおいでって、あっくんに言っといて」とほたるの母は意味不明なウィンクをして、やっと去って行った。
こほん、と、ほたるは小さく咳払いをする。緊張気味に「もしもし」と小さく言った。声がちょっとかすれた。
『……うす、あの、オレ、篤だけど』
電話越しの篤も、ちょっとぎこちない。
「うん」
『……今、ほたるの部屋?』
「うん」
『ほたる、双眼鏡とか持ってる?』
「双眼鏡?」
ほたるは机の引き出しの一番下を開いて「あるけど」と応えた。
真鍮製の双眼鏡。まだ幼稚園に通っている頃、ひいじいじからもらった宝物。辛い幼稚園を頑張ったほたるのご褒美に、ひいじいじは時々『探検』へ連れて行ってくれた。この双眼鏡は、その時のものだった。
『ほっちゃん隊長、本日はどこを探検するでありますか?』
ずしりと、ひっくり返りそうに重い双眼鏡を首からぶら下げたほたるが隊長で、ひいじいじは二等兵だった。二人で近くの林とか田んぼとか、いろいろ散策した。
あの頃は、ひいじいじも歩き回れたのに。
また涙がじわりと滲んでくる。と、再び受話器から篤の声がした。
『双眼鏡で窓から田んぼ見える? 通学路の方』
「ちょっと待って」
机の脇の小窓を開くと、早朝の冷たい風が入ってきた。双眼鏡を両目にあてる。空はまだ仄暗い。ピントを少しずつ調整していく。次第に視界がはっきりしてきた。
『見える?』
ランドセルを背負った小さな人影が手を振っている。篤だ。それから、紗良とももちゃんとさなえちゃんもいる。あと、もう一人、男子がいるみたいだけど。
「見えた」
『見えるって。せーの』
みんなが一斉に同じ田んぼを指差した。ところどころ狩り残しがある変な田んぼ……
「あ!」と、ほたるは目を見開いた。
[ほたる がっこう まてる]
『どう? 見えた? ちょっと待って。順番に変わ……』
誰かが篤の携帯電話をひったくり『もしもし』と電話の声が変わった。
「紗良?」
『ごめんね、ほたるちゃん。文字、間違えちゃった。【まってる】、の、小さい【つ】を、私が入れ忘れちゃったの』
背後でさなえちゃんが「紗良、今そこ重要じゃないから」とツッコミを入れている。
『もしもし、ほたるっち? あたしよん。ももちゃんだよん。学校で待ってるよん。って言ってもうちらクラス違うけどね』
かして、と、さなえちゃんがももちゃんから携帯を奪い取るのが見えた。
『ま、そういうことだから、気が向いたら学校来なよ。あたしは別に学校だけが人生じゃないと思ってるけど、世の中って案外面倒くさいからさ』
『あ、こんちは。オレ、大地っす。えっと、その。だから、あのですね』
『もう、あんたは黙ってて。ごめん、人手足りなくて呼んだだけだから』
わちゃわちゃしているみんなから携帯を取りあげ、篤が、うほんと咳払いをする。
『とにかく、オレらと、あと耕作さんも、ほたるを心配してるってことで』
「耕作さん?」
『この田んぼの持ち主。オレの死んだじいちゃんが通ってた、喫茶『ボブマーリー』のマスター。ほたるのこと話したら、蜻蛉さんのひ孫なら、ひと肌脱ぎましょうって、田んぼとか道具とか貸してくれたんだ。結局、稲刈りも手伝わされたけど。聞いてる?』
「……うん」
薄暗かった空に、赤みがさしはじめた。
『子供だったほっちゃんも広い世界に飛び出した』
ひいじいじ。
「待ってるからな、ほたる」
篤の、目の下のえくぼが見える気がした。
『ほっちゃん、禍福は糾える縄の如しじゃ』
「ありがとう、みんな」
双眼鏡越しに、友達が、ジャンプしながら両手を振ってくれていた。みんなの背中から希望に満ちた光がこぼれて、世界を明るく彩っていく。
これが、あたしの世界。
みんなが学校に行くのを見送って双眼鏡を外すと、夢で見たのとそっくりな黒トンボがすいーと、ほたるの目線を通過した。
「あ」
慌てて目で追ったけれど、見失ってしまった。きっと、ひいじいじがお別れに来てくれたんだと思った。
「さよなら。ありがとう、ひいじいじ」
まだ胸は痛むけれど、もうウジウジはしないよ。と心の中でひいじいじに話しかけた。
ひいじいじが会いたかった人は、ひいおばあちゃんかな。
着物姿ではにかむ目のクリッとした女の人の写真を思い出して(ひいじいじがアカネさんに会えますように)と、ほたるは祈った。
そういえば、あの写真を見せてもらったあと、ほたるはおばあちゃんに「ひいおばあちゃんはどんな人だった?」と尋ねたけれど「さあ」とおばあちゃんは首を傾げた。
「ひいおばあちゃんは、おばあちゃんを産んですぐに死んじゃったからよう知らんのよ。ひいじいじは綺麗な人だったって言ってたけどねぇ。ひいじいじもおばあちゃんも人並みの顔だし、写真もないから、実際のところわからんねぇ」
不思議なことに、アカネさんの写真をおばあちゃんは見たことがないようだった。
そういえばあの写真は、どこへ行ったんだろう。愛読書から若かりしひいじいじの写真を見つけたおばあちゃんは、アカネさんの写真については何も言っていなかった。
あとで、ひいじいじの本を見てみようかな、とほたるは思った。