元伯爵令嬢は乙女ゲームに参戦しました
「あっ、あっ、あー……蝶湖さん……」
「あら、失敗」

 びろびろーんとつながり、七夕の飾りのようになったきゅうりを持ち上げて、楽しそうに笑う蝶湖様の包丁さばきに前途多難さを感じます。

 第三回作戦会議にて、次の対決は料理と決まったわけですが、素人一名、初心者二名ですので時間内勝負のように、あまり凝った料理は出来る自信がありません。
 そういった理由で、勝負内容は『お弁当』で、日時は六月の最終土曜日ということになりました。これならば、手数は多いけれども、練習すればなんとか形になるでしょう。
 そうして、まずは包丁の練習からと、蝶湖様に持ってみていただいたのですが……酷いものです、危険です。
 正直怖くて見ていられませんが、見ていないともっと恐ろしいことになりそうなので、きっちりと監視しなければいけません。ええ、まだ見守るではなくて、監視・警戒レベルです。

「蝶湖さん、猫の手です。ねーこーのーてー」
「猫の手ね、はい。……あら、転がって」
「ストーップ!はい、今包丁下ろしたらダメです。絶対に、ストップ!」
「おかしいわね。なんで転がっていくのかしら?」

 不思議そうに両手を広げてじっと見つめます。いつものようにすらっと長く、丁寧に手入れされた指先がとてもお綺麗なのですが、今日に限って言えば、なんとなく大雑把な存在に見えてしまいました。

「練習あるのみです。刃物ですから、そんなにすぐ扱えませんよ」

 そう言って慰めます。ぼそり、真剣なら扱えるのに、と聞こえたような気がしましたが、聞き間違えですよね? 真剣に扱っているの言い間違いですよね。そうに、違いありません。

「ところでうらら、お宅で練習させてもらっているけれど、本当にお邪魔ではないの?」
「ええ、今日は母も夜までパートでいませんし、弟も妹も習い事で遅くなりますから大丈夫ですよ」

 まさか超が付くほどのお嬢様である蝶湖様が、ご自宅で練習といえども料理をするわけにはいかないでしょう。あいにくと学園内にも生徒が使えるような家庭科室もないようですし、だとしたらある程度のキッチン用品が揃っている私の自宅がいいのではないかとお誘いしたのですが。

「蝶湖さんのご自宅と比べれば随分手狭でしょうが、お気になさらず、くつろいでください」

 あ、くつろいでもらってはダメでした。練習してくださいです、はい。
 私がそう言うと、蝶湖様はフッと自嘲の笑みのようなため息を吐き出しました。

「手狭だなんて……ここは、うららのお宅は、とても暖かそうで素敵だわ」

 手を止めて、ゆっくりとキッチンからダイニングへと目を移していく、蝶湖様のこの表情に忘れかけていた前世の自分の感情がだぶります。
 自分とはかけ離れた生活への憧憬。そんなものを蝶湖様の瞳に見つけました。

「……蝶湖さん?」
「いやだわ。ごめんなさいね、うらら。じろじろ見てしまって」
「いえ、そんなことはいいのです。それよりも、なんだか蝶湖さんが――」

 泣いてしまいそうで。慰めたくて。そんなふうに思ってしまった自分がなんとなく図々しく思い、顔をそむけてしまいました。

「……つっ」
「大丈夫ですか!?」
「ええ、大丈夫」

 つい目を離してしまったその時、蝶湖様の持っていた包丁が、左指をかすめてしまったようで、その白い指先からじわりと血が滲み出ていました。急いで血を止めないと、と指先を口に運びます。

「……っえ?ちょっ、と、」

 傷口を撫でるように舐めあげると、微かに鉄の味がしました。その刺激に蝶湖様の指先がピクンと跳ね上がり、そこで初めて私は、蝶湖様の指に自分が吸いついているという事実に気が付きます。

「っ……あ……」

 つい、いつもの癖でやってしまいました。なんと厚かましい振る舞いでしょうか。慌ててその指を口から離せば、私以上に狼狽えたようにみえる蝶湖様の顔が、湯気が吹き出てしまったように真っ赤に染まっていました。そんなに可愛らしい顔をされては、こちらも頬が熱くなってしまいます。

「すみません、っ……その、失礼な真似を、しました」
「いえ……、こ、こちらこそ。ごめんなさいね、心配かけてしまって」

 二人、顔を赤くしながらの謝罪合戦はなんとなく気恥ずかしいので、早々に離脱させていただきたいと思います。

「あの、今絆創膏を持ってきますので、お待ちください」

 そう言って、キッチンのドアから出たところで、蝶湖様が左手の指先をそっと御自分の唇に置く姿が視界の隅に入ってしまい、あまりの恥ずかしさにしばらく廊下で蹲ってしまいました。
 そうしてなんとか今日の特訓が終わり、片づけを済ませると、蝶湖様から再びの謝罪をいただきました。

「今日はごめんなさいね。色々迷惑をかけてしまって」
「いいえ。迷惑なんかありませんでした。それよりも、こちらこそケガをさせてしまってすみません」

 蝶湖様の白い指に絆創膏が巻かれている姿が、とても痛々しく映ります。

「いやね、これこそ自分のせいだもの。気にしないでね。それより明日からはどこか場所を変えて練習しましょう。考えておきます」
「やっぱり手狭でしたか?」
「ううん。そうじゃなくって、その……ここじゃあ、ね……」

 なんとなく歯切れの悪い口調でめずらしく蝶湖様が口ごもります。
 慣れない庶民的なダイニングキッチンでは落ち着かないのかもしれませんので、無理を言っても仕方がありません。

「わかりました。蝶湖さんのいいようにしていただいて大丈夫ですので」

 提案を了承すれば、蝶湖様はホッとしたように頷き「ではまた明日」と、迎えに来た車に乗り込んでお帰りになりました。
 また明日。蝶湖様のその言葉をかみしめます。
 しばらくの間は今日のように、蝶湖様と一緒にいられる時間がたくさんとれるのだと思うと、嬉しいのに、少し気恥ずかしいような、なんだか落ち着かない気分で夜を明かすことになりました。
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