元伯爵令嬢は乙女ゲームに参戦しました
「蝶湖も、あんな……料理なんかに手を出すから、みっともないケガをする羽目になる」

 昨日の包丁でのケガのことを言っているのでしょう。確かに、教えると言っていたのに目を離してケガをさせてしまったのは私の落ち度ですから、それに対しての叱責ならば甘んじて受けるつもりです。
 けれども、みっともないだなんて言い方はありません。それは、初めてのことで手つきは覚束ないものでしたが、蝶湖様はとても真剣に取り組んでいたのです。
 思い通りに出来ないことすら、楽しんでいた様子はとても微笑ましいものでしたのに……
 あまりの言い草に腕の痛みのことも忘れ、思わずキッと睨みつけてしまいました。

「へえ? この状態でそんな顔ができるのか」

 意外だねと、からかうように言われましたが、そんなことはどうでもいいと、気にせず言葉が勝手に口から出てしまいます。

「蝶湖さんは、とても楽しんでいました。料理がくだらないだなんて思ってもいませんし、一生懸命に……」
「それはケガをしてまですることなのかい?」

 まるでシンっと音が聞こえるかのように冷ややかな声が響きました。それと同時に、掴まれたままの腕に指と爪がさらに深く食い込みます。
 痛い。そう思いましたが、歯を食いしばり我慢します。ここで、弱みを見せるわけにはいけません。
 私がというよりも、蝶湖様の思いが、負けてはいけないと思いました。

「蝶湖は月詠の総領だ。相応の行為と振る舞いを望まれている」

 それは、間違いなくそうなのでしょう。以前、月詠家はこの聖デリア学園でも飛び抜けて目立つお家だと、ご自分でもおっしゃっていました。
 それだけの家柄の跡取りだというのなら、きっと蝶湖様は、常に人目に晒されているようなものなのだと思います。

「そもそもこんなくだらない勝負を受けるとは思わなかった」
「だったら、何故……初めから反対しなかったのですか?」

 有朋さんが言われるところの、攻略対象者であるあの五人の中で、新明さんは常に一歩引いたところにいました。望月さんのようにあからさまに不快感を出すわけでもなく、下弦さんや三日月さんのように面白がるわけでもない。十六夜さんのように思いついた疑問を尋ねることすらしませんでした。

「蝶湖に? まさか! 望月と月詠は絶対だ。自分が彼らに面と向かって反対などするわけがない」

 満がね、抗うと思ったんだけどな。残念そうに呟かれると、掴まれた腕に力が入ります。

「そんな訳だから、君たちの口から蝶湖に直接言ってくれないかな。茶番はもうお仕舞いだって」

 ――――二度と近づくな

 そんな思いが言外に含む言葉と共に、腕が捻り上げられました。

「っ……離してくださいっ、新明さん」
「約束は?」
「……っ、しません!」

 私の言葉に、呆れるような、それでいてとても冷たい声で返します。

「君は、自分が思っていたよりも、随分と違うタイプのようだ」

 余計気に入らない。そう言って、更にその手を上に上げようと、力が入るのがわかりしました。
 腕の筋がピシッと鳴ったような気がします。これ以上は、後でどこか酷く痛むだろうな、そんな他人事みたいに感じたその時、

 ――ガッ!
 大きな音が轟き、淀んだ空気が一瞬で変わるのがわかりました。

 私の力では全く歯が立たなかったドアが開いたのでしょう。片手をつかみあげられた不自然な格好で後ろを振り向けば、そこには息を切らせた蝶湖様の姿がありました。

「うららっ……!」
「……蝶湖、さ……ま……」

 とても綺麗なそのお顔が、酷く歪んで、なんだかとても痛々しく見えてしまいました。ですから助けにきてくださったというのに、嬉しいはずなのに、つい思わず目を逸らしてしまいます。

「朔、……貴様っ」

 普段の声よりも、とてもとても低い声が絞り出すように吐き出されました。聞いているこちらが怯んでしまうように凍えそうな冷気を纏って。
 それでも名前を呼ばれた当の本人はあまり気に留めた様子もなく、私の腕からあっさりと手を離し、飄々と受け答えします。

「どうした、蝶湖。何か用事かい?」

 それは先程の私に対しての冷たい態度とは全く違う、以前から見知っているはずの、生徒会長の新明さんの姿でした。
 そんな新明さんの言葉を無視し、蝶湖様は私の方へ寄り、「大丈夫?」と声を掛けてくれましたが、その右手には血が滲んでいるように見えます。
 もしかして今のドアを開けたことでケガをしたのでしょうか? 私の不安気な視線に対し、蝶湖様は首を横に振りました。

「自分のじゃないから」

 優しくおっしゃると、私を庇うように前に出て、新明さん相手に見下すような視線を投げつけながら向かい合います。
 そうして蝶湖様が、つっと軽く握った右手を前に出したかと思えば、いきなり新明さんの制服で手に付いた血をぐいっと拭いました。
 新明さんの胸もとには、泥汚れのような赤い色が散っています。

「次は無い。消えろ」

 短くも鋭い言葉を、新明さんは肩を竦めつつ、はいはいと聞き流し大きく開かれたままのドアから出て行こうと足を向けました。
 その折、蝶湖様の耳元に何か囁くように口を動かしましたが、私のところまではその声は届きません。
 そうして私の横を通り過ぎるついでにと、全く悪びれもない態度で、「悪かったね」と、一言かけていきましたが、その冷淡な目つきにあらためて足がすくみました。

 けれども、負けないと、負けるものかと、背筋を伸ばして見返します。
 刹那、彼は驚いたと片眉を上げたようにも見えましたが、すぐに表情を元の読みにくいものに戻し去って行きました。
 そうして――――

「うらら……」

 心配そうな蝶湖様の声を聞いた途端、足から力が抜け、私はその場に崩れ落ちてしまったのです。
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