元伯爵令嬢は乙女ゲームに参戦しました
隠れるお嬢様
九月最初の月曜日、新学期の始まるその日は、それまでの状況ががらりと一変していたのでした。
まず、生徒会長職が三年生の新明さんから、二年生の朝比奈さんへと交代されていました。
聖デリア学園の生徒会は選挙ではなく生徒会長からの指名制であり、九月より新生徒会へ移行だと生徒会規約に書かれていますので、これには全く問題はありません。
ただ生徒のほとんどのものが、新生徒会長は間違いなく王子の望月さんか、真面目な十六夜さん辺りが引き受けられるのだと思われていたので、この人選にはそれなりの驚きとともに迎え入れられたのでした。
そしてもう一つ、その生徒会長任命よりもさらに大きな衝撃が走った話題というのが――――
「蝶湖さんが!? え、何故……どうして?」
「ちょっと、マジでわかんないんだけど本当なの、それ?」
「あら、随分と仲がよろしかったようでしたから、直接聞いていらっしゃると思っていたわ」
「はあ? 何よ、その言い方」
クスクスと、本音を隠すつもりもない笑い方で私たちに向けて声をかけてきたのは、同じクラスで馬術部に所属していた青山さんでした。学園祭のあたりから、あまりいい感情を持たれていなかったのは知っていましたが、馬術対決の時の出来事で完全に嫌われてしまったようです。
しかしそんなことはこの際どうでもよく、問題は彼女が嬉しそうに伝えてきた内容のほうでした。
「蝶湖さんが……転校?」
あまりに唐突な話に、喉が震え、上手く言葉になりません。
どうしてそんなことに? もしかして、私のせいで?
「あら、本当に聞かされていないのね。アメリカに留学ですってよ。まあとっても優秀な方ですし、あちらでその才能を発揮されるのもよろしいかもしれませんね」
そう言いたいことだけを言い捨てると、有朋さんの今にも襲い掛かりそうな気配を察知したのか、そそくさと離れて行きました。
「ちっ、あそこまで嫌味を言ってくぐらいなら、もう少し詳しく話してけばいいのにって、うらら、うらら! 大丈夫!?」
「え、ええ……話を、話を聞かないと。ちゃんと、ご本人から」
そうです。蝶湖様から直接話を聞かないことには、何が正しいのかもわからないではないですか。震える足を無理矢理立たせようと力を入れると、逆に腰から崩れるように椅子へへたり込んでしまうのです。そんな私の肩に手を置き、雫さんが待ってなさいと言って、教室から出て行きました。
「ダメだわ。月詠さん、登校してないって」
蝶湖様の教室までわざわざ足をのばし、確認してきてくれたのですが、結局のところ全く状況は変わりませんでした。
「一応噂の出どころも聞いてみたんだけれども、それがどうもあの、二年の服部さんらしいのよねえ。嘘くさいといえば嘘くさいのよ。だけど……」
言葉を濁す雫さんですが、言いたいことはわかります。
服部さんは、下弦さんたちほどではないにしろ、名家と呼ばれるところのお嬢様ですから、お家の伝手で何か話を聞いていてもおかしくはないのです。
ましてやこんなに大きな声でそれを吹聴して歩くなど、万が一にも間違っていたのならとんでもない話になってしまうのではないでしょうか。
ですから、この蝶湖様の留学話は、かなり確実性の高いところからのお話だと、そう言いたいのですね。
力の入りきらない手のひらを、それでもぎゅっと握りしめると、ふと思いついたことがありました。居るではないですか、もっと正確に知っている人が。何故早く確認しなかったのでしょうか。
「雫さん、下弦さんは? 今日はお休みみたいですけれど、聞いていただけませんか? 蝶湖さんのことを」
雫さんと、一週間前に両想いとなられた下弦さんになら、私の気持ちがバレたとしてもかまいません。そんなことよりも、蝶湖様のことが知りたいのです。
私がそう言うと同時に、眉間に皺をよせ、それは申し訳なさそうに手を合わせました。
「ごめん、うらら。その朧くんなんだけど、今日から二週間連絡が取れないことになってるの」
「えっ!? 下弦さんもなんですか?」
「うーん、理由はどうしても教えられないけれど、絶対、絶対に、浮気じゃないからって言われちゃったし、なんだかそれ以上突っ込めない理由がありそうだったから仕方がないけどって、頷いちゃったのよ」
あーもう、こんなことならうんって言うんじゃなかった! そう頭を掻きながら悔やむ言葉を口にしましたが、それは雫さんのせいではありません。
「雫さんのせいではないのですから、気になさらないで下さい」
「まあ、さっき約束破って電話かけちゃったんだけどさ」
こんな時までマイペースな雫さんに笑ってしまいました。
「でも、電源が入ってないか、電波が届かないってアナウンスが流れてきちゃった」
「それは仕方がないですよ。私のためにありがとうございます。でも、約束破ったらだめですよ」
「大丈夫、あとでちゃんと説明するし」
そう舌を出す雫さんの現金な姿に、蝶湖様への焦りが幾分か和らいでいくようでした。
「姉ちゃん、あのさ……その、ちょっといい?」
その日の夜、剣道場での出来事から半月の間、挨拶くらいしかほとんど口を利かなかったはると君が、久しぶりに私の部屋へ来て声をかけてきました。
「なあに、はると君。どうぞ、入って」
いくら動揺していたとはいえ、あの日はると君の言葉に耳を傾けなかった私は、仲直りのタイミングを外してしまい、そこから随分とぎくしゃくしていたのです。
ようやくはると君から話しかけてくれたことにホッとし、部屋に受け入れると、まず尋ねられたのが蝶湖様のことで少し驚きました。
「どうだった? あの、月詠、さん」
「ん……来ませんでした。学園に」
「え?」
「留学、するらしいの。まだ本当かどうかわからないけど……」
私がそう伝えると、はると君は口を大きく開け、真っ青になったと思うと、何やってんだと悪態をつきました。突然どうしたのかと尋ねると、急に泣きそうな顔で、ごめん姉ちゃんと何度も謝ってきます。
「俺が、あの時の勝負で勝ったら、姉ちゃんに近づくなって言ったから。だから、きっと」
そんな勝負だったことを初めて知りました。
でも、本当にそれだけで蝶湖様が姿を見せなくなったのでしょうか? あの時、剣道場で垣間見た蝶湖様の表情は、勝負に負けたというのに、なんだかとても楽しげだったように見えました。
そうすると、きっと他に何か理由があるのかも? 段々とそう思えるようになってきたのです。
「ねえ、姉ちゃん。俺、電話かけてみる。直で聞いてみよ?」
「はると君、蝶湖さんの電話番号知っているの?」
「うん。着信履歴残ってるし、ちょっと待ってて」
そう言ってスマホを取り出しました。番号を探し出し、ほらこれと画面を見せてくれます。
名前も何も登録していない、ただの数字の羅列が蝶湖様と繋がっているのかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなってしまいました。
「はると君、悪いけれどもお姉ちゃんにかけさせてもらえる?」
私のお願いを受け入れてくれたはると君が、黙ってスマホを渡してくれました。このままかけても、繋がらないかもしれないけれども、それでもかけてみたいのです。
指先をそっとあてるだけのコールをすると、番号をプッシュする音が終わり、その後でトゥルルルと呼び出し音が鳴り始めました。
繋がっているのだと、それだけで涙が出そうになりました。
「蝶湖さん……」
結局何十回と鳴らすそれが、取ってもらえることはなかったものの、拒絶されなかったことのほうが嬉しいと思いました。
そうしてまた明日、はると君にスマホを貸してもらう約束をして、その日は眠りについたのでした。
まず、生徒会長職が三年生の新明さんから、二年生の朝比奈さんへと交代されていました。
聖デリア学園の生徒会は選挙ではなく生徒会長からの指名制であり、九月より新生徒会へ移行だと生徒会規約に書かれていますので、これには全く問題はありません。
ただ生徒のほとんどのものが、新生徒会長は間違いなく王子の望月さんか、真面目な十六夜さん辺りが引き受けられるのだと思われていたので、この人選にはそれなりの驚きとともに迎え入れられたのでした。
そしてもう一つ、その生徒会長任命よりもさらに大きな衝撃が走った話題というのが――――
「蝶湖さんが!? え、何故……どうして?」
「ちょっと、マジでわかんないんだけど本当なの、それ?」
「あら、随分と仲がよろしかったようでしたから、直接聞いていらっしゃると思っていたわ」
「はあ? 何よ、その言い方」
クスクスと、本音を隠すつもりもない笑い方で私たちに向けて声をかけてきたのは、同じクラスで馬術部に所属していた青山さんでした。学園祭のあたりから、あまりいい感情を持たれていなかったのは知っていましたが、馬術対決の時の出来事で完全に嫌われてしまったようです。
しかしそんなことはこの際どうでもよく、問題は彼女が嬉しそうに伝えてきた内容のほうでした。
「蝶湖さんが……転校?」
あまりに唐突な話に、喉が震え、上手く言葉になりません。
どうしてそんなことに? もしかして、私のせいで?
「あら、本当に聞かされていないのね。アメリカに留学ですってよ。まあとっても優秀な方ですし、あちらでその才能を発揮されるのもよろしいかもしれませんね」
そう言いたいことだけを言い捨てると、有朋さんの今にも襲い掛かりそうな気配を察知したのか、そそくさと離れて行きました。
「ちっ、あそこまで嫌味を言ってくぐらいなら、もう少し詳しく話してけばいいのにって、うらら、うらら! 大丈夫!?」
「え、ええ……話を、話を聞かないと。ちゃんと、ご本人から」
そうです。蝶湖様から直接話を聞かないことには、何が正しいのかもわからないではないですか。震える足を無理矢理立たせようと力を入れると、逆に腰から崩れるように椅子へへたり込んでしまうのです。そんな私の肩に手を置き、雫さんが待ってなさいと言って、教室から出て行きました。
「ダメだわ。月詠さん、登校してないって」
蝶湖様の教室までわざわざ足をのばし、確認してきてくれたのですが、結局のところ全く状況は変わりませんでした。
「一応噂の出どころも聞いてみたんだけれども、それがどうもあの、二年の服部さんらしいのよねえ。嘘くさいといえば嘘くさいのよ。だけど……」
言葉を濁す雫さんですが、言いたいことはわかります。
服部さんは、下弦さんたちほどではないにしろ、名家と呼ばれるところのお嬢様ですから、お家の伝手で何か話を聞いていてもおかしくはないのです。
ましてやこんなに大きな声でそれを吹聴して歩くなど、万が一にも間違っていたのならとんでもない話になってしまうのではないでしょうか。
ですから、この蝶湖様の留学話は、かなり確実性の高いところからのお話だと、そう言いたいのですね。
力の入りきらない手のひらを、それでもぎゅっと握りしめると、ふと思いついたことがありました。居るではないですか、もっと正確に知っている人が。何故早く確認しなかったのでしょうか。
「雫さん、下弦さんは? 今日はお休みみたいですけれど、聞いていただけませんか? 蝶湖さんのことを」
雫さんと、一週間前に両想いとなられた下弦さんになら、私の気持ちがバレたとしてもかまいません。そんなことよりも、蝶湖様のことが知りたいのです。
私がそう言うと同時に、眉間に皺をよせ、それは申し訳なさそうに手を合わせました。
「ごめん、うらら。その朧くんなんだけど、今日から二週間連絡が取れないことになってるの」
「えっ!? 下弦さんもなんですか?」
「うーん、理由はどうしても教えられないけれど、絶対、絶対に、浮気じゃないからって言われちゃったし、なんだかそれ以上突っ込めない理由がありそうだったから仕方がないけどって、頷いちゃったのよ」
あーもう、こんなことならうんって言うんじゃなかった! そう頭を掻きながら悔やむ言葉を口にしましたが、それは雫さんのせいではありません。
「雫さんのせいではないのですから、気になさらないで下さい」
「まあ、さっき約束破って電話かけちゃったんだけどさ」
こんな時までマイペースな雫さんに笑ってしまいました。
「でも、電源が入ってないか、電波が届かないってアナウンスが流れてきちゃった」
「それは仕方がないですよ。私のためにありがとうございます。でも、約束破ったらだめですよ」
「大丈夫、あとでちゃんと説明するし」
そう舌を出す雫さんの現金な姿に、蝶湖様への焦りが幾分か和らいでいくようでした。
「姉ちゃん、あのさ……その、ちょっといい?」
その日の夜、剣道場での出来事から半月の間、挨拶くらいしかほとんど口を利かなかったはると君が、久しぶりに私の部屋へ来て声をかけてきました。
「なあに、はると君。どうぞ、入って」
いくら動揺していたとはいえ、あの日はると君の言葉に耳を傾けなかった私は、仲直りのタイミングを外してしまい、そこから随分とぎくしゃくしていたのです。
ようやくはると君から話しかけてくれたことにホッとし、部屋に受け入れると、まず尋ねられたのが蝶湖様のことで少し驚きました。
「どうだった? あの、月詠、さん」
「ん……来ませんでした。学園に」
「え?」
「留学、するらしいの。まだ本当かどうかわからないけど……」
私がそう伝えると、はると君は口を大きく開け、真っ青になったと思うと、何やってんだと悪態をつきました。突然どうしたのかと尋ねると、急に泣きそうな顔で、ごめん姉ちゃんと何度も謝ってきます。
「俺が、あの時の勝負で勝ったら、姉ちゃんに近づくなって言ったから。だから、きっと」
そんな勝負だったことを初めて知りました。
でも、本当にそれだけで蝶湖様が姿を見せなくなったのでしょうか? あの時、剣道場で垣間見た蝶湖様の表情は、勝負に負けたというのに、なんだかとても楽しげだったように見えました。
そうすると、きっと他に何か理由があるのかも? 段々とそう思えるようになってきたのです。
「ねえ、姉ちゃん。俺、電話かけてみる。直で聞いてみよ?」
「はると君、蝶湖さんの電話番号知っているの?」
「うん。着信履歴残ってるし、ちょっと待ってて」
そう言ってスマホを取り出しました。番号を探し出し、ほらこれと画面を見せてくれます。
名前も何も登録していない、ただの数字の羅列が蝶湖様と繋がっているのかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなってしまいました。
「はると君、悪いけれどもお姉ちゃんにかけさせてもらえる?」
私のお願いを受け入れてくれたはると君が、黙ってスマホを渡してくれました。このままかけても、繋がらないかもしれないけれども、それでもかけてみたいのです。
指先をそっとあてるだけのコールをすると、番号をプッシュする音が終わり、その後でトゥルルルと呼び出し音が鳴り始めました。
繋がっているのだと、それだけで涙が出そうになりました。
「蝶湖さん……」
結局何十回と鳴らすそれが、取ってもらえることはなかったものの、拒絶されなかったことのほうが嬉しいと思いました。
そうしてまた明日、はると君にスマホを貸してもらう約束をして、その日は眠りについたのでした。