雪降る夜はあなたに会いたい 【下】
その日は朝から経営会議が入っていて、常務室に戻って来た頃にはちょうど昼時になっていた。
この部屋の窓からは、少し先に大きな公園が見える。都心にあるとは思えない緑豊かな公園だ。桜の名所でもあるが、もうここから見ても桃色には見えなかった。
「常務は、お花見はされましたか?」
そんな景色に目をやっていると、神原から声を掛けられた。
「いや、結局行けないままで終わってしまった。雪野は、行きたがっていたけどな」
週末のたびに雨にやられて、順延にしているうちに花は散ってしまっていた。散ってしまってから思っても遅いが、雨の中でも花見に行っておけばよかった。
「今年は、雨の日が多かったですからね。でも、来年も、再来年も、桜は咲きますから」
「そうだな」
慰める神原の言葉を聞きながら、もう一度窓の外に目をやった。
「――では、私は、昼食に出ます。常務は、今日も奥様の手作りのお弁当ですか?」
「ああ」
仕事を辞めてから、雪野は俺に弁当を作るようになった。
――常務なんて肩書の人でも、手作りのお弁当って、持って行っても大丈夫?
そんなことを心配そうに聞いて来た雪野を思い出して、思わず顔がほころぶ。
『ビジネスランチや会食がある時以外は、何の問題もない。昼にまで雪野の作ったものが食べられるなんて最高だ』
そう答えたら、雪野が満面の笑みになった。
「ここ最近、奥様、頑張られていますよね。 先週もこちらにいらしていましたね」
仕事を辞めてから、雪野は時折、昼食時に神原の元を訪れている。
「それに、今後のためにといろいろと習い事をされているとか。最初にお仕事辞められたと聞いた時、私のせいではないかと思ったんです――」
苦い表情をした神原にすぐに言った。
「雪野は何をするにも、誰かのせいにするような人間じゃない」
「お仕事をお辞めになって、常務の支えになる。そう、覚悟を決められたんですね。鬼金棒、絶対に、常務が丸菱のトップになられます」
「もう、俺だけの目標でなくなった。雪野と俺は運命共同体、同士だ」
それでもまだ、俺の心には少しの罪悪感が残っている。本当に辞めさせてよかったのかと。
雪野には雪野の、したいことがあったんじゃないのか――。
でも、俺は雪野の一番近くにいる人間として、雪野の言葉を信じるべきなのかもしれない。
「ただ、あまり無理はしてほしくないんだけどな……」
また、俺の知らないところで、頑張り過ぎていなければいいが――。
「それにしても奥様のお弁当、いつも美味しそうで、何より愛情が詰まっていて。見ているこちらが胸がいっぱいになりますよ」
神原が苦笑する。デスクに弁当を広げて、箸をつけるまえに、一度眺める。それが日課になっていた。弁当を眺めていればエプロン姿の雪野が目に浮かび、また一人表情を緩ませてしまう。
「春らしい色合いですね。まるで、お花見の時に持って行くお弁当みたいです」
確かに――。
窓の外の景色を見ながら食べたら、美味そうだ。
その時、デスクの上のけたたましい電話の音が鳴り響いた。
「お昼時なのになんでしょうか」
そう言いながら神原が受話器を手にする。その様子を見ていると、神原の表情が一変した。
「常務っ!」
叫びにも似た声が空間を切り裂く。