雪降る夜はあなたに会いたい 【下】
それは、榊常務の秘書になって一か月ほどが経った五月のことだった。
本社時代から仲良くしていた、秘書仲間、浅野由奈と、久しぶりに休日にランチを一緒に取った時のことだ。
「――ねえ、今、本社が凄い噂でもちきりなんだけど!」
本社秘書課で役員の秘書をしている由奈が、ビッグニュースとばかりに身体を前のめりに突き出して来た。
「噂?」
「あなたのボス、榊さんのこと!」
「……え?」
今では、榊常務とは毎日顔を合わせている間柄だ。
ここ最近、特に何か変わったご様子はないと思うけれど……。
「最近、本当に最近のことらしいんだけど。婚約したんだって! 由紀乃知ってた?」
婚約――。
手にしていたフォークを握りしめたまま、身体が固まる。
「由希乃?」
「あ、ううん。全然、知らない」
由奈が、不思議そうにじっと覗き込んで来たから慌てて答える。
「まだ噂だし、関連会社じゃそんな情報も入らないよね。でもね、これがまた、ただの婚約じゃないから、余計に社内では大騒ぎなのよ!」
「ただの婚約じゃない……?」
榊常務がご結婚される――。
それだけでも、まだ頭が追いつかない。
でも、ああいう立場の人だ。しかるべき人としかるべき時期に結婚する。当たり前のことだ。榊常務には以前から縁談の話があったのだろう。
幹部の方々の奥様のほとんどは皆、ご立派な家の出の人だった。これまでずっと秘書をやって来たからそんなことくらい誰よりも分かっている。
結婚も、一つのビジネスだ。
何かとんでもない感情が襲って来ようとしている自分に、戒めるようにそう言い聞かせる。
「高貴な生まれな方との”よくある婚約”じゃないから、想像やら妄想やらの尾ひれがついて盛り上がっちゃってるのよ」
由奈のテンションがひとりでに上がって行くのをただじっと見つめていた。
「榊さんなんて榊家の長男でしょ? 当然、昔から結婚相手は決まっていた。それも、そのお相手は、次期総理候補と言われる宮川経産大臣の娘。それなのに、その縁談を断って、自分の決めた人と結婚することにしたらしいのよ! 素敵な話じゃない?」
「……え?」
カチャリ――。
自分が握りしめていたフォークが皿に触れる音がした。
「そんな人には見えないのにって。だって、榊さん、野心ありそうだし、女なんて踏み台って感じじゃない? ただでさえあのクラスの人たちは、いろいろ決められていることも多い。それなのに、それを振り切って自分の意思を押し通した。押し通したいと思うほど愛している女性がいたってことでしょ? それで、もう、女子社員で盛り上がってる――」
「由奈が一番盛り上がってるみたいだけど」
自分の発した声が思った以上にきつくなっていることに気付いても、後のまつりだった。
この話題に夢中になっていた由奈の表情が一変している。