雪降る夜はあなたに会いたい 【下】
それでも頭を過る。
私の目の前で会議資料を捲るこの人が、その冷徹な表情の裏で情熱的に愛している人――。
きっと、知的な職業に就いている有能な人なのだ。
弁護士か、医者か。
それに、麗しい容姿を持った人。
そうに決まっている。そうであってほしい。
誰がどう見ても納得せざるを得ない人――。
「――これで問題ない。準備を頼む」
「かしこまりました」
余計な言葉は一切ない。きっちりと整えられた短い黒髪は、乱れることもない。
常務室を後にして、気付くと大きく溜息を吐いた。
最近の私、どうかしている――。
残務処理と翌日の会食の事前準備をしていたら、とっくに定時を過ぎていた。常務室の扉に視線をやるも、静かなままだ。
何かするべきことがあるかと尋ねるため、常務室の扉をノックしようとした時だった。扉が、ほんのわずか開いていた。
「常務――」
視界に入った榊常務の背中に声を掛けようとした時。
「――ああ、ゆきのか?」
”ゆきの”――?
ドアノブにかけた手が止まる。その響きに、胸が貫かれたようにドクンとなった。
その名前は、私の――。
「いや、特に用事というわけでもない。仕事はもう終わったのか?」
その人から出されている声だと認識するまでに、数秒掛かった。それほどまでに、聞いたことのない榊常務の声だった。
部下には決して聞かせることのない、それそれは酷く甘い声だった。
「――なら、これから迎えに行こう」
背中しか見えない。いつも私が見続けて来た、ピンと伸びた背中さえも、違うものに見えて。
「――いや、いい。俺が、ゆきのに会いたいんだ」
そんな声で、その名を呼ばないで――。
無意識のうちに耳を塞ぐ自分がいた。何か、大きな間違いを犯してしまいそうで怖かった。