雪降る夜はあなたに会いたい 【下】
翌日、会議を終え、私が常務室を後にしようとした時、常務に引き留められた。
「――伝えておきたいことがある」
「はい、なんでしょうか」
「十月に結婚する。今後のスケジュール調整の際は、その点を考慮に入れておいてくれ」
本当に単刀直入な言葉。何の前置きもない。
「それは、おめでとうございます」
私は表情一つ変えずに祝いの言葉を向けた。
「ああ、ありがとう」
常務が、ほんの一瞬その表情を緩めた。
それは、日頃その表情をほとんど動かさない常務の、些細ではあるけれど確かな変化。
「式が終わるまでは、神原にも迷惑をかけることがあるかもしれない。申し訳ないがよろしく頼む」
「とんでもございません。私にできることは何なりとお申し付けください。上司の結婚です。私にとってもおめでたいお話です」
つい出てしまった言葉に後悔するも、常務は特段気に留めている様子もなかった。
「――本当にめでたいよ。ここまでたどり着けるのに、苦労したからな」
そうひとり言のように呟くと、榊常務は窓の外に視線を向けた。
目の前にあるのが背中だったからかもしれない。私はまた余計なことを口走ってしまっていた。
「心の底からご結婚なさりたいと強く願った方なんですね……って、申し訳ございません、立ち入ったことを――」
「いや、構わない。その通りだからな」
こんな風に、仕事以外の話題を常務としたのは初めてのことだった。
仕事では見せない柔らかな表情もどこか優しい声も、全部、私の知らない女性がさせているもの。
よっぽど素晴らしい女性なんだ。私なんかでは到底足元にも及ばない、そう思うことさえおこがましい――。
私はもう、呪文のようにそう自分に唱え続けていた。
そうすることで平常心を保ち、婚約の発表から結婚される日までひたすらに業務に専念して来たのだ。