雪降る夜はあなたに会いたい 【下】
社の玄関ホールを出て行こうとした奥様の小さな背中を見つけ、声を上げた。
「奥様、お待ちください」
「神原さん……どうされたんですか?」
走り寄る私を、目を丸くして見ている。
「私、今日は本当に失礼なことを……っ」
「神原さん」
頭を下げる私に、キッパリとした口調の言葉が返って来た。
「また、これからもいろいろとお聞きしてもいいですか? 分からないこと、教えてください」
「もちろんです」
「ありがとうございます。では、また」
静かな声でそう言うと、奥様は玄関を出ていかれた。
「神原まで、どうした」
「い、いえ、失礼いたしました」
部屋に戻った私に不思議そうにしつつも、常務は見ていた書類に視線を戻した。
「……奥様は、本当にお優しい方なんですね」
気付けば、この口が勝手にそう零していた。
「え……? あ、ああ。そうだな。あいつの優しさにはいつも驚かされるが、少し心配でもある」
「心配、ですか……」
「いつも、自分のことを考えず人のことばかりで。自分が傷付くことに無頓着なところがある。もう少し自分のことも大事にしてもらいたいんだけどな……」
刺すような痛みが胸を貫く。
ついさっき、あの人を傷つけたのはこの私だ。
あんなことを言われて不快にならないはずはない。ただ、自分の優先順位が明らかに低いだけなのだ。
あの時、奥様は、咄嗟に自分の立場より常務の立場を優先した。
自分の心は蔑ろにして――。
「私、もっと頑張ります。常務のお役に立てるよう、精一杯働かせていただきます」
頭を下げた私の頭上で、常務が短く答えた。
「必ず本社に戻す。今は、ここでしっかり仕事してくれ」
「はい」
”どうして榊常務は、この人を選んだのか”
自分自身が感じた疑問の答えを思い知る。
地位やバックグラウンドに頼ることなく、努力されてきた方だ。そんな人が選んだ女性。
それが、何よりの証だったのだ。