姉の身代わりでお見合いしたら、激甘CEOの執着愛に火がつきました
恋人(仮)
 菱科さんがCEOだと知ってから、ここ数日心ここにあらずだった。
 仕事中だというのに、気づけば心が別のところに行ってしまう。
『〝約束〟――なかったことにはさせないよ』
 どうしよう。あのときの菱科さんの顔、冗談ではなく本気だった。
 怒らせた? でもそういった表情とはまた違ったような……。いやそれよりも、相手が自社のCEOだなんて、さらに無理案件でしょう。
「新名さん?」
「わっ。はい! すみません」
 私に声をかけたのは、須田さんだ。
 彼は心配そうに私の顔を覗き込んで言う。
「ものすごい難しい顔してたよ。今日はもう上がったら? たまには仕事を忘れて息抜きしたほうがいいよ。次の企画会議まで、まだ日にちあるし。ね?」
「そうですね。ありがとうございます」
 須田さんのおかげで日常を思い出し、少し現実に戻れた。
 今朝は、就業前に菱科さんが部署に来た。改めて就任の挨拶をして回っていたみたいだった。
 私たち社員の前で凛として挨拶をする姿を見て、ようやくこれまでの出来事は現実のことなんだって受け止めはしたけれど。
「受け入れるのとはまた別だよね」
 ロビーへ向かうエレベーターの中で、ぼそっとひとりごとをこぼす。
 エレベーターを降りて、腕時計を見た。午後六時過ぎだ。
 祖母のいる病院の面会時間は八時までだ。今から向かえば少しくらい話ができそう。
 私は祖母のところに立ち寄ることにして、エントランスを出た。

 病院の敷地内に入ったとき、正面からスタイルのいい男性が歩いてきたのに気づき、なにげなく顔を見た。すると、その男性が菱科さんで絶句する。
 菱科さんもすぐに私に気づき、目を丸くした。
「幸さん? 奇遇だな」
 奇遇っていうか、なんかもう怖いくらい。まさか、後をつけてきたわけじゃないよね?と、つい疑いたくもなってしまう。
 無礼にも猜疑心のままに彼を観察するも、彼は私の不躾な視線にも動じず、なんなら私の心の内を読み取っているかのように笑いかけてきた。
「君もお見舞いに?」
「え? は、はい」
 菱科さんの質問から、彼もまた誰かのお見舞いでやってきたのだとわかり、私たちが会ったのは本当に偶然だったのだとほっとした。
「そうだ。ちょうどよかった。これを渡したかった」
 菱科さんはそう言って、スーツの上着の内ポケットから封筒を取り出す。そして、私の左手を取り、強制的に封筒を持たせた。
「これは返すよ。そういうつもりじゃなかったから」
 なにかと思って封筒をちらりと覗くと、中にはお金が入っていた。
 これは、私が土曜日に渡したお金だ。
 ここでまた私が差し出しても、彼は受け取ってはくれないと感じた。そうかといって、易々と受け入れるのも……。
 私は複雑な心情を抱え、封筒を返すこともしまうこともできずに固まっていた。
 口火を切ったのは菱科さんだ。
「あ。それと、連絡先教えてほしい」
「えっ……。でも、業務連絡は内線や社用携帯がありますよ」
「なら、業務外の連絡があるときは、終業時間後に直接声をかけに行けばいいのかな?」
「業務外の連絡……?」
 それはどんな……っていうか、直接来られたら困る。目立って仕方がないし、瞬く間に噂の的だ。
 困惑する私を見て、菱科さんは小さく笑う。
「ほらね。それだと君に迷惑をかけると思ったから、連絡先を聞いたんだ」
 私はしばらく考えた末に、スマートフォンを手に取った。
「わかりました」
 これ以上あがいたところで、菱科さんに敵う気がしなかった。それに、彼が私の連絡先を知って、悪用するようにも思えなかったから。
 菱科さんにはいろいろと驚かされることばかりだけれど、本能的に危険を感じたことはない。第一、自社のCEOだと明らかになった今、それはますます確固としたものになった。雇用する側とされる側。そんな関係で問題を起こすわけがない。
「ありがとう。足止めして悪かった。じゃ、また明日」
 菱科さんは連絡先の交換を終えると、あっさりと去っていった。
 私は手の中のスマートフォンを見つめ、連絡先アイコンに指を置く。ディスプレイには【菱科京】と登録されたばかりの名前が表示された。
 ずっとそう。私を動揺させる言葉を恥ずかしげもなくささやくのに、絶対に力づくでなにかをしようとすることはない。強引は強引なんだけど、きちんと一線を意識しているというか……。
 もっと他人のことなんてお構いなしなくらい、デリカシーもない人でいてくれたら、すぐさま突っぱねることができるのに。
「基本的に紳士なんだよね……」
 返された封筒に目を落とし、ぽつりとつぶやいた。

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