仕事に悪影響なので、恋愛しません! ~極上CEOとお見合いのち疑似恋愛~
「菱科CEOって、家柄もルックスも頭脳もよくて、人望が厚いってすごいよね。さらにあの記録だもんな」
「記録?」
「あれ。知らない?」
 すでに両親を通して返却した彼の釣書には、あの時点での肩書きくらいで、ほかは仔細に書かれていなかった。
「昔、うちの売上ナンバーワンの新宿店で個人外商部売り上げトップを独走し続けたって。ここへ来る直前まで、数年海外にいたらしいよ。海外店舗では支配人として業績を上げて転々と回って、そのあとはエリアマネージャーにまで」
「そんなに素晴らしい経歴が……?」
「うん。そうして今、三十三の若さでCEOなんだから、普通じゃないよ」
 初対面のときの迅速な対応や判断力などから、仕事ができる人なんだろうなとは思っていた。現に若くしてCEOにまでなっているのだから、それは間違いない。
 だけど、これまでの具体的な経歴を聞くと、漠然と抱いていたイメージがより鮮明になって、恐れ多くなる。
「しかも彼はここ久東百貨店を含む久我谷グループの血縁の方らしい。確か、ご母堂の旧姓が久我谷だって話だったけど」
 さらに知り得た情報に度肝を抜く。
 久我谷グループ全体を統括しているのは、確かそのまま『久我谷』という名字のつく年配の男性だった気がする。とすると、その男性と菱科さんは三親等以内の関係である可能性が高いのでは……。
 菱科さんが数メートル先まで近づいてきたところで、私と須田さんはお互いに目を見合わせて席に着いた。ノートパソコンに向かうも、菱科さんの存在が気になって仕事どころではなかった。
 菱科さんは『気にせず』と言っていたけれど、たぶん全員がそんなこと無理だと思っているに違いない。現に、いつもならもう少し話し声が聞こえる部署内がしんと静まり返っている。
 足音が徐々に近づいてくるのがわかる。そして、背後を通り過ぎるときにちょっとした風を感じた。その数秒後に大人っぽい、菱科さんの香りが届く。
「新名さん。これ」
 ふいに顔の横に菱科さんの腕が伸びてきて心臓が跳ねた。
 だけどここで反応してはいけない。周囲に変に思われる。
 彼は私のノートパソコンに表示されていた送信メール画面の、【連絡いたします】を指さしていた。
 私は首を傾げ、思わず菱科さんを見る。菱科さんは含み笑いをするだけだった。
 その後、菱科さんは部署の人たちへ向かってお礼を言い、部署を去っていった。
 部署内の空気が元に戻る中、私はひとり菱科さんが残した謎を必死に考える。
 なんだろう。私のこのメールの文章、どこかおかしい? 誤字とか変換ミスはないし、敬語も問題ないはず……。彼の意図を汲み取れない。

 仕事を終えて会社を出た私が今いる場所は、水の上。
 ここは屋形船の中。二名貸し切りの非日常的な空間にどぎまぎし、いまだ順応しきれていない。
 あの彼の行動の意味を理解できたのは、就業直後に彼からスマートフォンに一通のメッセージが来たときだった。
【今夜、ぜひ食事につき合ってほしい】――。
 どうやらあのとき菱科さんは、私に『連絡するよ』と示唆していたらしい。
 初めは遠慮する気持ちで返信文を作成していた。けれども、今回のお誘いはアメリカで彼と交わした『約束』なのかもと思い、迷いに迷って誘いを受けた。
「まだそんな顔してるの?」
 向かい合って座っている菱科さんは眉尻を下げ、可笑しそうにそう言った。
 さっきから私はずっと複雑な面持ちをしているのだろう。こんなめずらしい場所に連れてこられて、そう簡単に戸惑いは消えない。
「や……こういう場所での食事とは……さすがに想像していなかったというか」
 屋形船はメディアで見たことはあったけれど、著名人や観光客が主な利用客だと思って、自分には縁遠いものだと思っていた。
 仕事柄、日頃から高級感のあるものや店にはアンテナを張らなければと思っている。
 この屋形船も観察してみると、中の座敷はおそらく長さ十数メートル、幅は五メートルほどあり、ふたりだけで利用するには広すぎるほどだ。
 こんな経験したことない上、相手が出張のときの恩人で、縁談相手で、自社CEOだから、めちゃくちゃ緊張する。
 眼前に広がる夜景でさえも、まともに味わえないほどに。
「いいものを知っておくというのは武器になる。ひいてはお客様へ新しいものを伝えられるきっかけにもなりうると思わないか?」
 今日、須田さんから新宿店の外商部でトップの成績だったと聞いたからか、菱科さんの言葉には説得力があった。
 私は咄嗟にはなにも言えず、わずかに視線を下げた。
「と、いうのは半分建前で、もう半分は俺の好きなものを君と楽しみたかった」
 菱科さんが続けた言葉に、自然と顔が前を向く。
 彼の純真な笑顔からは、不穏なものはなにも感じられない。
< 16 / 66 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop