仕事に悪影響なので、恋愛しません! ~極上CEOとお見合いのち疑似恋愛~
 無意識に仕事モードに突入していた私は、デートみたいな空気にさっきまで感じていた照れくささも、すっかり忘れていた。
 信号が青に変わる。菱科さんはアクセルを踏む直前、私を一瞥して苦笑した。
「んー、残念。俺じゃなく、仕事への興味ってところか」
「すみません……」
 我に返り、気まずい思いを抱えながら小声で謝った。
 元々菱科さんからの猛プッシュで、疑似恋人関係みたいな、実験みたいなことをする羽目になったわけだ。とはいえ、それに対して迷いながらも了承したのはこの私。
 これまでの経緯を振り返ると、ちょっと配慮に欠けた態度だったのかも……?
 なんだかこうなってくると、不器用だから恋愛と仕事の両立が難しいとか言ってしまったけれど、単純に恋愛に向いてないのでは?という気がしてきた。
 首をすくめて小さくなっていると、菱科さんが「ふふ」と笑う。
 私はこの流れにそぐわないやさしい笑い声に驚き、彼を凝視する。
「いや。俺の公私ともに興味ゼロより幾分いい」
 うれしそうに頬を緩めている菱科さんを見て、きょとんとする。
 菱科さんの顔色を窺っていると、彼はハンドルを操作しながら話を続けた。
「モチベーションか……。当時は、理想通りに事を運ぶことができるか――というところを意識していたな。やりがいを感じるのは、理想的な結果が出せたとき」
 意外に淡白な回答に、なんともいえない感情を抱く。
 つまり、数字だけ見て、という話だよね。
 これまでの彼の実績や今の立場を考えると、現実を見据えて仕事にドライに向き合うのは当然のことだとも思える……私には難しそうってだけで。
 膝の上の手を軽く握り、視線を落とす。
「と、それは外商時代の話」
 菱科さんの声にいざなわれるように、自然と彼に目が向いた。
 彼の瞳は輝きを放っていた。
「今は〝自分の理想〟じゃなく、〝お客様の理想〟を代名詞にできるような百貨店ブランドを目指してる。もちろん、昔もお客様を蔑ろにしていたつもりはない。でも今はもっと、素の笑顔を引き出せるような、そんな店にできたらいい」
 彼のまっすぐな目と頼もしい横顔に、胸が高鳴る。
 今聞いたばかりの言葉を頭の中で反芻し、自然と顔が綻んだ。
「それは……最高ですね」
 すると、私をちらりと見た菱科さんもまた、柔らかく目尻を下げる。
「そう。君が今見せてくれたような、そういう表情をね」
 彼の笑った横顔が印象的で、気づけば胸が高鳴っていた。

 約三十分後、自宅アパート付近に到着する。
「家、この辺なんだ。本社付近は通いやすいだろ」
「はい。通勤時間を短縮したくてひとり暮らしを始めたので」
「へえ。それは殊勝な……。だったら俺は、よりいっそう働きがいのある企業にすべく邁進していかなきゃな」
 彼の経営者の顔つきに目を奪われる。
 部下を鼓舞するような頼もしいオーラは、CEOという肩書きがあれば誰にでも備わるものではないと思う。この人についていきたいと思わせるカリスマ性。これは間違いなく、菱科さんの魅力だ。
 危うく彼の双眼に引き込まれてしまいそうになったのを堪え、視線を外す。会釈してドアハンドルに手を伸ばしながら、お礼を口にした。
「ええと、では。これで。ありが――んっ……」
 一瞬のことで、なにが起きたのか理解できるまで数秒かかった。
 私は目を見開き、片手で口元を押さえる。
 今の……キスされた? 私の後頭部を撫で、やさしく捕らえると自然な流れで顔を傾けて……。
 心臓が早鐘を打つ中、菱科さんを窺う。
「恋人だって実感してもらわなきゃならないしね」
 彼はいたずらっ子みたいにはにかんだ。まるで邪気のない笑顔に私もどんな感情で向き合っていいか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「――幸、って呼んでもいいかな?」
「え? あ……ど、どうぞ」
「ありがとう」
 うれしそうな顔をする菱科さんに、ますます動悸が速くなる。
 すると、菱科さんが私の頭に軽くぽんと手を置いた。
「ああ、そうだ。来年の催事の企画コンペに提出されたものはすべて俺が確認するから、俺を納得させるようなものに仕上げるように。そこに私情は一切挟まないよ」
 キスされたかと思うと、仕事への熱意を煽られて、私はますます気持ちが追いつかない。どうにか取り繕って返事をする。
「も、もちろん心得てます」
 もう、めちゃくちゃだ。完全に菱科さんペースで振り回されている。
 立て直す間もなく、彼は私の頬を愛しそうに撫でて微笑んだ。
「じゃ、おやすみ、幸」
 車を降り、菱科さんが去っていくのを見送ったあとも、その場で放心した。
 厳しい一面を見せたと思ったら、最後はあんなに甘い声で名前を呼び捨てにするなんて……。
 どう頑張ったって、振り回されてしまう。こんな調子で、本当に相乗効果を得られるようになれるのだろうか。
「もう……。心臓がついていかないってば……」
 私は堪らずその場にしゃがみ込み、そうつぶやいた。

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