仕事に悪影響なので、恋愛しません! ~極上CEOとお見合いのち疑似恋愛~
 よくよく考えたら、社内で菱科さんにちょっと見入ってしまったって、慌てる必要はなかったかも。そういう女性社員はわりといるようだし、社内での彼の注目度は、それくらい高いのだから。『菱科さんは目立つ存在なので』とか、適当に返事をすればよかった。
 こんなふうに言葉を詰まらせ、あからさまに目を逸らせば『意識している』と思われてしまうのに。恋愛面ではことごとく失敗ばかりだ。
 心の中で嘆いていると、菱科さんは私の腕を放し、やさしい声音で話し出す。
「気づいてないとでも思った? そんなはずないだろう? 俺はどこにいても幸を見つけられる。オフィス内でも店舗でも」
 仕事とは違う、別の緊張感に襲われる。
 恐怖はない。だけど平気でもいられない。
 私が一ミリも動けず固まっていると、おもむろに彼の指先が私の耳介を掠める。
 わずかな刺激にたまらず目を閉じ、肩をすくめた。
「本当なら、このヘアスタイルのことだってメッセージじゃなくて、直接この耳にささやきたかったのに……って、あれ? どうしてそんな顔してるわけ?」
 彼の声が近くから聞こえる。
 私に合わせて、わざわざ上半身を屈めて話すものだから、どぎまぎしてまともに会話もできない。
「そ、そ、そんな顔って、どんなですか」
 顔どころか、自分がなにを口走っているかさえ冷静に考えられず、とにかく距離を取りたくて後ずさる。……が、すぐさま腰を捕らえられて身動きが取れなくなった。
 彼はパニック寸前の私の唇に、そっと指を置く。そして、意味深な笑みを浮かべた。
「もしかして、昨日の夜のことを思い出したかな?」
 甘い声で意地悪にささやいては、私の髪の毛を手のひらに掬う。さらには、毛先に唇を寄せてキスする仕草を見せつけるものだから堪らない。
「な……んのことですか? まったく存じ上げません」
 口では可愛げなく抵抗するも、彼のそんな些細な仕草がくすぐったく、声にも足にも力が入らなくなっていた。耐えられなくて、最後にはまた目を瞑ってしまうありさまだ。
 動揺していることは認める。でも、この状況において不快感がないことに困惑もしていた。
 もしも、彼のその指先が私の顎を掬い上げ、唇を落としてきたなら……。私はきっと、抵抗するどころかここが会社だってことすら忘れ、受け入れてしまいそう。
 これ以上はだめ。理性よ、働いて。平常心、戻ってきて!
 流されそうになる気持ちにブレーキをかけ、グッと手に力を込める。心の中で三つカウントし、瞼を押し上げた。
 すると、菱科さんの顔が目前にあっていっそう動揺する。
 彼は私の顔をジッと見つめ、ぽつりとこぼす。
「こら。そろそろ怒ってくれなきゃ。このままじゃ図に乗るよ?」
「怒る?って……」
 もはや、彼のペースに翻弄されて、言葉の意味さえ即座に判断できない。
 至近距離の彼は、相変わらず私をまっすぐ見続けながら答えた。
「幸から言い出したんだろう。社内では秘密だと。でもここはどこだ?」
 ああ。菱科さんには余裕が残っているんだ。からかい半分でこんなことができるくらいに。
 比べて私ときたら、余裕なんか一切ない。もしかすると、以前の私ならここまで狼狽えずに簡単に突っぱねられたかもしれない。でも今はもう……胸がドキドキしてしまって……。菱科さんが昨日、忘れられないようなキスなんかするから。
「ここは……誰もいない、物品庫です」
 ひとり余裕綽々な菱科さんを責める気持ちも含め、小さく返した。
 すると、彼は急に顔を横に向け、片手で額を覆う。
「……参ったな」
 そのひとことに、ピクッと肩を揺らした。
 彼が急にこれまでとは違った低く苦々しい声で、つぶやいたものだから。
 なにか彼の逆鱗に触れたかと、息をひそめて彼の言葉を待つ。彼はひとつ息を吐いて、その怜悧な目をこちらに向けた。
「ふたつ言いたいことがある。まず、その可愛い顔は社外でだけ。俺の前だけにして」
「は……?」
「もうひとつは――」
 思考が追いつかないうちに、菱科さんは私の頭に軽くキスを落とす。
「なっ……」
「めちゃくちゃ好き」
 私が異議を申し立てる気も消え失せるほどの、無邪気な笑顔。
 これまで、菱科さんは年上ということはもちろん、その立場からいつでも大人で聡明で、ときどき狡猾な一面も見せる、そういう男性。自分の言動や相手の出方などを緻密に計算して、ほぼ思い通りに事を運ぶ、そんな人だった。
 私が今、菱科さんの恋人になったのだってそう。頭の回転が速い彼に、うまく言いくるめられた。どこか菱科さんの手のひらの上で転がされている感があったから、常に優位なのは菱科さんだって思っていたのに。
 そうやって、心の底から『うれしい』って表情をして、私でいっぱいみたいな反応をされると、ますます翻弄されてしまう。
 気づけば彼から目を離せない。
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