仕事に悪影響なので、恋愛しません! ~極上CEOとお見合いのち疑似恋愛~
 そう気づいた直後、菱科さんが私の頬を撫でて言った。
「明日から出張続きなのもあって、しばらく時間がなくて……。でも来週の金曜の夜には仕事全部片づけるから。会いたい」
 あまりに切なく一途な瞳をして乞うものだから、体よく断ることもできない。
「わ……かりました」
 菱科さんとはあくまで〝恋人お試し中〟の仲だ。恋人関係解消となる可能性もありうると考えたら、下手に深入りするべきではないのに。わかっているのに、実際は別の受け答えをして……矛盾している。
 こんなこと初めてで、自分で自分がわからず迷子にでもなっている気分だった。
 不安を抱いていた矢先、菱科さんは私が了承したからか、顔を綻ばせて私に柔和な眼差しを向けてくる。
 その表情は、心の隅に残っていた迷いを忘れ去れるほどの威力。
 誰かが喜んでくれると、自分もうれしい。
 これまでそういう感情は、たとえば日常生活だと祖母の思いを感じたり、仕事中ならお客様に対して思うもの。
 でもこれは……違う。
 今この瞬間抱いた喜びは、誰かの気持ちを反映したものではなく、自分の中から湧いてきた気持ちだ。

 あれから、十日。
『どこにいても幸を見つけられる』
 そう彼が言ったから、いつ見られてもいいようにと、気を引き締めて仕事に向かっていた。
 同時に、薄々感じ始めていた。仕事に恋愛を持ち込むことは当然ご法度だけれど、恋愛が仕事に張り合いが出る要素にもなりうるのかもしれない、と。
 現に今、菱科さんは出張中だと知っているにもかかわらず、彼に見られるときを想定して、より真剣に仕事に向き合っている。
 しかし、そう感じることができたのは、きっと相手が菱科さんだからだ。
 菱科さんは、私が仕事の話をしても嫌がらない。興味なさげな態度も取らない。
 いつも、まるで楽しみにしていたかのような目で、耳を傾けてくれる。自分のことみたいに、うれしそうな顔をしてくれる。
 仕事を頑張る私を認めてくれている気持ちが本心だとわかるから、ときどきメッセージに書かれてある【頑張って】の言葉も素直に受け止められた。
 頻繁に仕事の話をするのは恋人に嫌がられるのだと思っていた私にとって、菱科さんと過ごす時間はあまりに居心地がよすぎる。
 隣の席の須田さんがふいに声をかけてきた。
「新名さん、見た? 上層部からの通達」
「はい。ついさっき」
 社内に一斉送信されていた内容は、いくつか連絡事項があった。その中で、私が一番興味を引いたものが、店舗の運営方針についてだ。
 なんでも、今後は積極的に参加型フェアも取り入れていくといった内容で、もっとお客様と密な時間を共有するといった狙いが記載されていた。
「参加型は現場が大変ではあるけど、お客様がその時間は滞在してくれるわけだし、もし連れの方がいれば、そのぶん普段は立ち寄らない売り場にも足を運んでくれるきっかけにもなるよな」
「それに参加してくれている方も、販売員や商品とゆっくり向き合えるので、これまで以上に購入を考えていただけるきっかけが増えるかもしれませんね」
「となると、今後の商品買いつけにはそういったことも念頭においていかないとな。企画案も然り」
「そうですね」
 社員宛のメッセージに添付されていた書面の文末には、菱科さんの名前があった。
 ああいった内容の通達には、CEOが決裁したという意で記名されているのだろうけれど、今回のはどうなのかな。なんとなく、菱科さんが積極的に動いた気がする。
 だって、以前言っていた。
『素の笑顔を引き出せるような、そんな店にできたら』と。
 ああ、認めざるを得ない。今、無性に菱科さんに会いたい。
『俺を納得させるようなものに仕上げるように。そこに私情は一切挟まないよ』と厳しく言い放つ菱科さんに、一社員として認めてもらいたい。
 その気持ちは今も変わらないけれど、たぶんもう私は〝一社員として〟と思う以上の欲求を抱いている。

 金曜日の今日は、いつも以上にがむしゃらに仕事をした。
 今日は金曜日で週明けからの仕事に支障を出さないように、というわけではない。いよいよ今夜菱科さんに会えると思ったら、そのことばかりに気がいきそうで、邪念を払うためとにかく仕事をこなしていたのだ。
 そして、気づけば菱科さんが私の部屋にいる。
 築二十年の1LDKのアパート。決して新しくはないけれど、オートロックもついているし、なにより通勤時間が半減する立地だったから満足していた。
 だけど、まさかこの部屋に男の人を招き入れることなんか想像もしていなかっただけに、ちょっと落ちつかない。
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