仕事に悪影響なので、恋愛しません! ~極上CEOとお見合いのち疑似恋愛~
 週が明け、中日になる。
 あれから数日経った今も、ふとしたときに菱科さんを思い出し、気恥ずかしい気持ちと同時に胸が温かくなっていた。
 金曜の夜は、あの流れで菱科さんがうちに泊まり、翌日は都内近郊をドライブデート。土曜日は彼のマンションにお泊まりすることとなり、日曜の夕方に別れた。
 私はその後、久しぶりに祖母のお見舞いに行ってきた。どうやら、今のままでいけば近いうち退院できるらしい。
 なんだかんだと、自分のことも順調に進んでいる気がして自然と口角も上がる。
 昼休みのあとは、須田さんと店舗を回る予定だ。
 ロビーで待ち合わせしていた私は、昼休みが終わる十分前にロビーに向かい、ソファで資料の確認をしていた。 ふいに目線を手から上げる。膝の上のタブレットに集中していても、ロビー内のわずかな空気の変化がわかった。
 視線の先にいたのは菱科さん。
 十数メートル先を、秘書らしき人を連れて歩いている。どうやら外出先から今ここへ戻ってきたようだった。
 エントランスからエレベーターホールまでの間に、菱科さんは仕事の話なのか、はたまた単なる世間話なのか、数名の社員に声をかけていた。途中、秘書の男性を先に戻るよう促したっぽいところまで、こっそりと見届ける。
 私は意識的に資料と向き合おうとするものの、どうしても菱科さんを気にしてしまう。目が勝手に彼を捉えようと動きかければ、すぐに理性を働かせて抑え込んだ。
 もしも視線を送って一瞬でも目が合ってしまったら……。このあと、須田さんが来たときに平静を装える自信がない。
 なにより、バレてしまう。私が彼を見つめていたことを、菱科さん本人に。
「まだ休憩時間だと思うが?」
 背後から声がして勢いよく後ろを振り返る。
「えっ……! な、なっ……」
「ああ、これから日本橋店に行くのか。ちょっと数字が落ちてるな。すぐ現場に行くと判断するあたり、さすがうちの商品管理部社員だ」
 ソファ越しに私が手にしているタブレットを覗き込むのは、さっきまで前方にいたはずの菱科さんだ。
「お、恐れ入ります」
 私はすぐに顔を前に戻し、会釈をした。
 いつの間にここに? っていうか、後頭部に菱科さんのスーツが触れているし、香りも近くて心臓が持ちそうにない。
「幸を初めて見たのも日本橋店だったな」
 そんな私の状況も知らずに、菱科さんがさらりと『幸』と呼ぶからぎょっとする。
「菱科さ……っ」
「会話の内容までは誰も聞こえてないよ」
 彼はタブレットに指を置いて、涼しい顔をしてそう言った。
 確かに菱科さんだけだったなら、周囲の人だっておかしなところにも気づかず素通りしていくと思う。だけど、私は平気なふりをする自信がないのに。
「相変わらず、熱心な顔が魅力的だ。ロビーに入ってすぐ気づいていたよ。俺のほうを見てくれていただろう?」
 必死で平常心を保とうとしているのに、後ろから耳元でささやかれ、もうどうにかなりそう。
 菱科さんのにおい、鼓動を速める色っぽい声。
 瞬く間にいろんなことが思い出されて、身体の奥から熱くなる。
 もうそろそろ限界だ。
「あ、の! さすがにもう」
「そうだな。さすがにこれ以上は俺の我慢がきかなくなりそう」
 ぼそっと返された言葉に驚いて、思わずまた後ろを振り向く。
 菱科さんは姿勢よく立ち、腕時計を一瞥して上品に微笑んだ。
「お、ちょうど就業時間になった。じゃ、気をつけて」
「……はい」
 CEOとしての笑顔に切り替わったを目の当たりにした途端、寂しくなるなんて矛盾している。
 さっきまで、社内で声をかけられることに困っていたのに。こんなふうに感じる自分の変化に戸惑いを隠せない。
 菱科さんは、あっという間に声も届かないところまで行ってしまった。私は再び周囲の背景に溶け込み、おとなしく目立たぬようにと心の中で唱える。
「新名さん、お待たせ」
 名前を呼ばれ、顔を向ける。立っていたのは須田さんだ。
 私はまださっきの動揺が残っている中で、平静を装って笑顔を作る。
「須田さん。準備はできてます。行きましょうか」
「ああ。今日は社用車で行こう。販促品のサンプルとかもあるし。キー持ってきた」
 それから駐車場へ移動し、須田さんは運転席へ、私は助手席に乗り込んだ。
 ここから目的地までは五分程度。シートベルトをしめていたら、須田さんがぽつりと尋ねてくる。
「さっきさ。菱科CEOと新名さん、なんていうか……親しげに見えたんだけど」
 心臓が飛び出そうなほど驚いた。
 あまりに大きな脈を打つせいで、声までも震えそう。
「そんな、ありえないことを……」
 顔が引きつるのを堪えながら返すも、須田さんは納得できなかったのか、食い下がってくる。
「そうかな。新名さんはきっと気に入られてるよ。さっきだけじゃなく、何度かそう思うことがあった」
 須田さんの言うことは、どれも抽象的で核心に迫るほどのものではない。けれども、そのあたりをさらりと躱せないのが、私が不器用だと思う所以だ。
 あからさまに動揺が伝わるような間を生み、細い声で答えてしまう。
「気のせいだと思います」
 こんな状況のせいか、たった五分の距離が今ばかりはやけに長く感じる。
 膝の上で両手を握り、早く目的地に着いてほしいと願っているときに限って、赤信号で車は止まる。
 気まずい空気の中、呼吸すらも聞こえないようにと息をひそめた。
「実は前に見たんだ。菱科CEOと、新名さんらしき女性がふたりで車に乗っているのを」
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