コリアンモンスター
典子は塾の参考書を閉じるとベットに横になった、枕の下に隠しておいた北朝鮮の歴史を書いた本を取り出して読み出す、地元から離れた場所にある図書館でわざわざ借りてきたものだ。
社会主義国家、マルクス主義、素晴らしい思想だと共感せずにはいられなかった、この国に行けばいつまで続くか分からない競争などしないで済む。みんなが平等に分け合い、能力があるものはそれ以外の人間を助けてあげる。
もしもそんな国に生まれていればこんなに必死に勉強する事もない、天才になる必要もない、ママもきっと天才じゃなくたって愛してくれるに違いない。
行き過ぎた競争社会が歪んだ人間社会を形成して、それが子供たちに伝承されていく、いったい自分が大人になる頃の日本はどうなってしまうのだろう。
それでもママに愛されたい、子供だったらそう思うのが普通なのだろう、多分に漏れず典子も愛情を欲していた。その為には天才になるしかなかった。
しかしまったく勉強する気分になれなかった、いくら頑張ったところであのモンスターには到底敵わない、あの女さえ現れなければこんな劣等感を味わうことなどなかったのに。
手提げ鞄に参考書を詰め込んで図書館に行く準備をする、家にいるよりは余計なことを考えないで集中できる気がした。
「図書館いってくるね」
リビングでコーヒーを飲んでいるママに声を掛けて家を出た、図書館は歩いて五分の場所にある。
カッ、と照らす夏の太陽を浴びてからこんな暑い中わざわざ外に出た事を後悔した。最寄りの赤羽図書館は空いている代わりにエアコンが殆ど効いていない、だから空いているのか。
図書館を通り過ぎて駅前に向かった、エアコンが効いていて、静かで集中出来る場所を最近見つけたからだ。
「いらっしゃいませ、あら典子ちゃん」
とても同級生の母親とは思えない美しい女性が出迎えた、相変わらず店は暇そうだ。先日、休みの日に宣美と図書館で勉強した帰り聚楽に寄った。
両親のお店だから好きなものを食べていってと言われて連れてこられたのだ。雰囲気が気に入って学校帰りにも何度か通っている。
「こんにちは、ここのカウンター勉強集中できるから」
静かに流れるジャスにインベーダーゲームの効果音、少ない客がカップをソーサーに置く何気ない生活音が耳心地良く、無音よりも典子は集中できた。
ジュース代の五百円も宣美の友達価格で百円にしてもらっているので財布にも優しい。
「偉いねえ、典子ちゃんは、宣美にも見習ってほしいわ」
嫌味で言っている訳じゃないのはすでに理解していた、彼女は娘の成績に興味もないようでテストを親に渡した事はないと宣美が言っていた。
しかし彼女が娘たちを愛しているのは接し方で分かる、典子が求める母愛がそこにはあった、こんな優しい表情でママは笑わない。常に鉄仮面を付けたように無機質な表情を崩さないのは男性社会で舐められない為だと分かっていても、家庭にまで持ち込む必要があるのかどうか疑問だった。
「そんな必要ないです、宣美のほうが成績良いんですよ」
彼女は「そうなの?」とあまり重要でもない事実を聞いたかのようにして相槌を打つと「オレンジジュース持ってくるね」と言ってキッチンに消えた。
天才的な頭脳に優しいお母さん、自分が欲しているものを生まれた頃から持っている宣美に嫉妬した、いくら努力しても自分には未来永劫手に入れることが出来ないギフト、天才同士の遺伝子をかけ合わせて出来上がった典子は必死に努力してやっと人より少しだけ能力が高いだけの凡人だった、それに気がついたからといって認めるわけにはいかない、それは自分を殺すことに等しいのだから。
宣美の母はオレンジジュースを典子の前に置くと、インベーダーゲームに熱中していた若い男の前に座って喋りだした、どうやら知り合いのようだが、はたから見るとまるで恋人同士のようだった。
気を取り直して参考書を取り出し予習を始める、やはり家よりも集中できる、二時間ほど夢中に勉強していると「おかわりどうぞー」と声が聞こえた、可愛らしい声につられて視線を下げると小学校の低学年くらいの女の子が新しいジュースを両手で大儀そうに持って典子に差し出している。
なんだ、この可愛い生き物は――。
最初の感想はそれだった、どうやら空になったグラスを見て持ってきてくれたようだが彼女は何者だろうか、信じられないくらいの美少女だ、いや、美少女と言うには年齢が幼なすぎるか。
「ありがとうね」
幼女からジュースを受け取って頭を撫でた。「へへ」っと照れ笑いする姿が胸をキュッと締め付ける。
「オンニ――、じゃなくてお姉ちゃんのお友達なんでしょ?」
カウンター席に座る典子を見上げながら幼女が聞いてきた、お姉ちゃんのお友達、キッチンに視線を向けると宣美のお母さんがペコリと頭を下げた。
するとこの天使のような女の子は宣美の妹という訳か、あまりに似ていないので最初まったく結びつかなかったが、あの母親の容姿を鑑みるとおかしいのは宣美の方で、この子のほうがよっぽど血の繋がりを感じる。
「宣美の妹さんかな、お名前は?」
幼女は右斜め前方を見ながら考え込んでいる、まさか自分の名前が分からない年齢でもないだろう、ましてやあの女の妹だ、天才的な頭脳を持っているに違いない。
「レイナ、八歳です」
八歳にしては幼いような気がしたが、自分がその年令の頃を思い出しても比較の仕様がない。麗菜は「ごゆっくりー」とませた表情で言うとテーブル席に戻っていった、そしてよく見ると宣美が座っている、コチラに向かって遠慮がちに手を振っていた。
「ちょっとなによ宣美、来てるなら声くらいかけなさいよ」
カウンター席から移動してテーブル席に移った、ドアベルが鳴ってもいちいち客を確認したりしないのでまったく気が付かなかった。
「ごめんね、すごい集中してたから」
面長の顔にカッターで切れ込みを入れたような細い目は開いているのか閉じているのか分からない、鼻は低くのっぺりとした顔をした宣美、相変わらずの醜女だった。
圧倒的な頭脳に負けていても、この顔に生まれてくるのはちょっと憚られるな、と典子は考えていた。そして、それが勉強で負けている自分のプライドをギリギリ保ってくれた。天はすべてを与えるわけではないのだ、と。
「もう、今日はおしまい」
「じゃあ一緒に遊ぼ!」
宣美の隣の麗菜が元気よく手を上げた、小さな鞄の中からトランプを取り出してババ抜きをやろうやろうと小さな手で配り出した。「ごめんね」と宣美が呟くがちょうど息抜きしたかった所だ、付き合うことにした。
社会主義国家、マルクス主義、素晴らしい思想だと共感せずにはいられなかった、この国に行けばいつまで続くか分からない競争などしないで済む。みんなが平等に分け合い、能力があるものはそれ以外の人間を助けてあげる。
もしもそんな国に生まれていればこんなに必死に勉強する事もない、天才になる必要もない、ママもきっと天才じゃなくたって愛してくれるに違いない。
行き過ぎた競争社会が歪んだ人間社会を形成して、それが子供たちに伝承されていく、いったい自分が大人になる頃の日本はどうなってしまうのだろう。
それでもママに愛されたい、子供だったらそう思うのが普通なのだろう、多分に漏れず典子も愛情を欲していた。その為には天才になるしかなかった。
しかしまったく勉強する気分になれなかった、いくら頑張ったところであのモンスターには到底敵わない、あの女さえ現れなければこんな劣等感を味わうことなどなかったのに。
手提げ鞄に参考書を詰め込んで図書館に行く準備をする、家にいるよりは余計なことを考えないで集中できる気がした。
「図書館いってくるね」
リビングでコーヒーを飲んでいるママに声を掛けて家を出た、図書館は歩いて五分の場所にある。
カッ、と照らす夏の太陽を浴びてからこんな暑い中わざわざ外に出た事を後悔した。最寄りの赤羽図書館は空いている代わりにエアコンが殆ど効いていない、だから空いているのか。
図書館を通り過ぎて駅前に向かった、エアコンが効いていて、静かで集中出来る場所を最近見つけたからだ。
「いらっしゃいませ、あら典子ちゃん」
とても同級生の母親とは思えない美しい女性が出迎えた、相変わらず店は暇そうだ。先日、休みの日に宣美と図書館で勉強した帰り聚楽に寄った。
両親のお店だから好きなものを食べていってと言われて連れてこられたのだ。雰囲気が気に入って学校帰りにも何度か通っている。
「こんにちは、ここのカウンター勉強集中できるから」
静かに流れるジャスにインベーダーゲームの効果音、少ない客がカップをソーサーに置く何気ない生活音が耳心地良く、無音よりも典子は集中できた。
ジュース代の五百円も宣美の友達価格で百円にしてもらっているので財布にも優しい。
「偉いねえ、典子ちゃんは、宣美にも見習ってほしいわ」
嫌味で言っている訳じゃないのはすでに理解していた、彼女は娘の成績に興味もないようでテストを親に渡した事はないと宣美が言っていた。
しかし彼女が娘たちを愛しているのは接し方で分かる、典子が求める母愛がそこにはあった、こんな優しい表情でママは笑わない。常に鉄仮面を付けたように無機質な表情を崩さないのは男性社会で舐められない為だと分かっていても、家庭にまで持ち込む必要があるのかどうか疑問だった。
「そんな必要ないです、宣美のほうが成績良いんですよ」
彼女は「そうなの?」とあまり重要でもない事実を聞いたかのようにして相槌を打つと「オレンジジュース持ってくるね」と言ってキッチンに消えた。
天才的な頭脳に優しいお母さん、自分が欲しているものを生まれた頃から持っている宣美に嫉妬した、いくら努力しても自分には未来永劫手に入れることが出来ないギフト、天才同士の遺伝子をかけ合わせて出来上がった典子は必死に努力してやっと人より少しだけ能力が高いだけの凡人だった、それに気がついたからといって認めるわけにはいかない、それは自分を殺すことに等しいのだから。
宣美の母はオレンジジュースを典子の前に置くと、インベーダーゲームに熱中していた若い男の前に座って喋りだした、どうやら知り合いのようだが、はたから見るとまるで恋人同士のようだった。
気を取り直して参考書を取り出し予習を始める、やはり家よりも集中できる、二時間ほど夢中に勉強していると「おかわりどうぞー」と声が聞こえた、可愛らしい声につられて視線を下げると小学校の低学年くらいの女の子が新しいジュースを両手で大儀そうに持って典子に差し出している。
なんだ、この可愛い生き物は――。
最初の感想はそれだった、どうやら空になったグラスを見て持ってきてくれたようだが彼女は何者だろうか、信じられないくらいの美少女だ、いや、美少女と言うには年齢が幼なすぎるか。
「ありがとうね」
幼女からジュースを受け取って頭を撫でた。「へへ」っと照れ笑いする姿が胸をキュッと締め付ける。
「オンニ――、じゃなくてお姉ちゃんのお友達なんでしょ?」
カウンター席に座る典子を見上げながら幼女が聞いてきた、お姉ちゃんのお友達、キッチンに視線を向けると宣美のお母さんがペコリと頭を下げた。
するとこの天使のような女の子は宣美の妹という訳か、あまりに似ていないので最初まったく結びつかなかったが、あの母親の容姿を鑑みるとおかしいのは宣美の方で、この子のほうがよっぽど血の繋がりを感じる。
「宣美の妹さんかな、お名前は?」
幼女は右斜め前方を見ながら考え込んでいる、まさか自分の名前が分からない年齢でもないだろう、ましてやあの女の妹だ、天才的な頭脳を持っているに違いない。
「レイナ、八歳です」
八歳にしては幼いような気がしたが、自分がその年令の頃を思い出しても比較の仕様がない。麗菜は「ごゆっくりー」とませた表情で言うとテーブル席に戻っていった、そしてよく見ると宣美が座っている、コチラに向かって遠慮がちに手を振っていた。
「ちょっとなによ宣美、来てるなら声くらいかけなさいよ」
カウンター席から移動してテーブル席に移った、ドアベルが鳴ってもいちいち客を確認したりしないのでまったく気が付かなかった。
「ごめんね、すごい集中してたから」
面長の顔にカッターで切れ込みを入れたような細い目は開いているのか閉じているのか分からない、鼻は低くのっぺりとした顔をした宣美、相変わらずの醜女だった。
圧倒的な頭脳に負けていても、この顔に生まれてくるのはちょっと憚られるな、と典子は考えていた。そして、それが勉強で負けている自分のプライドをギリギリ保ってくれた。天はすべてを与えるわけではないのだ、と。
「もう、今日はおしまい」
「じゃあ一緒に遊ぼ!」
宣美の隣の麗菜が元気よく手を上げた、小さな鞄の中からトランプを取り出してババ抜きをやろうやろうと小さな手で配り出した。「ごめんね」と宣美が呟くがちょうど息抜きしたかった所だ、付き合うことにした。